梨花が珍しい拾い物をしてきたのは、今から十日ほど前、三月の頭のことだった。一月の末から内乱が本格化し、太上皇がまします東都からそう遠くない各地を転戦していて、牽制のために陣を敷いた、とある山の上り口でだ。正しくは、梨花ではなく、彼女がいつも連れている猟犬の白牙というものが、人気の無い道端からくわえて、主の所へ連れて来た、それは、生後半年ほどと見える、人間の赤ん坊であった。

 回りは人気の無い山道、その後しばらく探したが、結局親は見つからず、見捨てるのも哀れだと連れてきてしまった。意外なことに、梨花はその子に裕と名前を付けて、人目も憚らずに、さながら我が子のように可愛がった。元々実戦を想定してここにいるわけではなく、飽くまで抑えとしての布陣であるし、花冠将軍としての職務が疎かにされるわけでもなかったから、誰も文句は言わなかったが。

 陣中央の天幕に入ろうとすると、足元から、狼に似た、白い毛皮の大きな犬が鋭く見上げてくる。誰よりも忠実で頼りになる、梨花の守り手だ。

「ご苦労だな、白牙。お前のご主人に、会わせてくれぬか」

白牙はダリューンの顔と声をちゃんと覚えていて、こちらさえ一言挨拶すれば、必ず通してくれる。だが今回は、中へ入るよりも先に、求めていた相手のほうが出てきた。

「ダリューン。何か用か」

濃淡取り混ぜた鮮やかな青の戎装を纏ったその姿と、腕の中の赤ん坊とが、不釣合いなようで意外と似合う。

「いや、用というよりはな…暇だから、顔を見に来た」

言いがてら、ぎこちなくかがみこんで裕の頭を撫でる。最初の頃はよくこれで泣かれたものだったが、最近どうやら慣れてきた。

「おぬしも慣れたが、私も随分様になってきただろう?」

それを見た梨花が、視線は裕に落としたまま、悪戯っぽく笑った。

「ああ。それにしても、すっかりご執心だな。そんなに可愛いか」

冗談で尋ねたつもりの問いに、意外にも真っ直ぐな答えが返ってきた。

「当然だ…私は、この子の母親だからな――まあ、私はきっと、実の我が子をこうして抱くことは無いだろうから、私の、たった一人の可愛い子だ……」

長い睫を伏せて、ふっともの思わしげな表情を作ったかと思うと、慌ててそれを振り払い、裕をあやしながら、ゆっくりと歩き始めた。何処へ、というよりは、ただあやすためだけの、本当にゆるやかな歩みである。その足元へ、じゃれつくような調子で白牙がまつわりついた。「母親」の戎装さえなければ、実に平和な母子の図式だ。その平和さこそが、何よりダリューンの心を苛む。何故ならそれこそが、梨花の、というよりはあの年頃の娘のあるべき姿なのだから。いや、既に娘というのは相応しくないかもしれない。年が明けて十八になり、婚期は逸した。嫁き遅れと誹られても文句の言えない年である。上流階級の子女が皆十五六で嫁いでゆく風潮だ、十八なら、早ければあのくらいの子供がいてもおかしくない。それは梨花が、望んで投げ捨てた、ひとつの愛おしい幸せのかたち。そして、ある意味では投げ捨てざるをえなかった幸せだ。そう思うと、鋭い痛みが胸を走るのを感じた。

「ダリューン?」

小首を傾げて、梨花が歩み寄ってくる。その笑顔と、その腕に抱かれた無垢な命と、ふたつの清らかさがあわさって、心に落ちた翳を洗い流してゆく。

「いや…なんでもない」

それでもなお、梨花は気遣わしげな様子を見せたが、ふいに裕のたてた楽しげな声が、それをも掻き消してしまった。

「どうした、裕。何が嬉しい」

戯れ半分にダリューンの差し出した指を、裕の柔らかな手が握る。どぎまぎするダリューンの横顔をじっと見つめていた梨花が、ゆっくりと口元をほころばせ、母親特有の甘い口調で言った。

「そうか、裕、お前、ダリューンが好きか。ダリューンは優しいものな。ちゃんとわかるのだな。賢い子だ」

穏やかな春の日差しの中、寄り添う三人と一匹の姿は、事情を知らない者の目には、平和なひとつの家族にも見える。いや、事情を知っていても見えたかもしれない。ただ、事情を知っていれば、その裏に潜むあまりの辛さに耐え兼ねて、何も言わないだけだ。

 

 念のために放っておいた斥候が敵の情報を持ってきたのは、その日の深夜だった。どうやら敗残兵の集団のようで、この山に忍び込み、夜襲のどさくさに紛れて梨花なりダリューンなりを討ち取ってしまおうと考えているらしい。こういう敵については辛辣に対応したがるのが、梨花の癖だ。妙なところで、ナルサスに似ている。つまり、夜襲を成功したと思わせておいて、逆に取り囲んで殲滅してしまえというのだ。乱暴なようだが、一応理には叶っている。とにかく、食糧だけはしっかりと守って、何処を襲われても秩序だって反撃できるように支持を徹底し、各所に信頼できる現場責任者を置くこと。追い詰める場所を決めておく。それから日暮れまでにすべきことは、本当にたくさんあった。だからこそ誰もが、すっかり忘れていたことが、ひとつだけあった――

 

 「そのこと」に皆が一斉に気付いたのは、その晩遅く、襲ってきた敵を手筈通りに追い詰めて、完全に包囲し、降伏を促す段に至ってからだ。その時になって、敵の首領らしき男は、勝ち誇った表情で高らかに槍を掲げた。その穂先に乱暴に結び付けられた、白い布――その中の「もの」――それが何であるか、誰よりも早く、梨花にはわかった。

「……裕」

声までが蒼褪めて、つねの鮮やかさを欠いていた。

 敵の主張は至ってわかりやすく、要は赤ん坊の命が惜しければ梨花がそちらへ行けということであった。しかし、ダリューンの見ている梨花の横顔は、色を失い、茫然自失しているように見える。状況が状況だけに気持ちはわかるが、仮にも一軍を束ねる将がこれでは、まったく相手の思う壺ではないか。肩でもゆすろうか否か、しばらく迷っていると、幸いにも梨花の方からはっと正気を取り戻してくれた。

「すまん、醜態を曝したな…」

独語も終わりになるに従って、顔色が変わってくる。勝気でどちらかといえば好戦的な、不吉ともいえるその表情は、凄絶なまでの決意に染まっている。

 一瞬の沈黙を隔てて、梨花は、きっとダリューンを見据えた。

「頼みがある」

何か、嫌な予感がした。必ず無茶をやらかす。そう、わかっていながら止めることも出来ず、頷き返す。

「私と白牙で裕を取り戻してみる。その間、指揮権を預かって欲しい。要は私が裕を取り戻したら、頃合いを見て全軍に攻撃命令を出してくれればいい。頼む」

やはり、とんでもないことを、あっけからんと言い放たれた。流石に即答しかねる。

「いくらなんでも危険すぎる。それに、俺のセリカ語がどんなものだか、お前が一番知っているだろうが」

「確かに、褒められた発音ではなかったな。会話には不自由するだろうが、たったひとことが伝わればそれでいいのだ。ことは語学の問題ではないよ」

言うなり、返事を待たずに歩き出す。

「心配するな。私はあの子の母親だぞ。母は強いと言うではないか」

詭弁めいた言葉でダリューンを言いくるめて、梨花は行ってしまった。こうなったら、腹を括るしかない。

 息を呑んで見つめる視界で、ことは目まぐるしく展開していった。進み出た梨花を、敵の首領が嘲るような調子で笑い棄てる。回りの者が梨花を嬲りにかかる。彼女だけに注意が集まる隙を縫って、白牙が飛び出した。首領の腕に喰らいつき、槍を放させる。槍の先端の布袋を、梨花が抱え込む。今だ、と思った瞬間。

「ヤシャスィーン!!」

飛び出すと同時に叫んだ言葉は、彼の母国語、パルス語であった。兵士たちが知るはずも無い、異国の言葉である。しかし、その意を汲み取れなかった者は一人も居なかった。敵味方が入り乱れ、一見して混戦のようになるが、もとより絶対数が違う。こうなれば、勝敗は目に見えている。

 混乱の渦中からようやく一歩抜け出した梨花は、むずかる裕をあやしながら、戦場に目をやった。視線の向く先では、ダリューンが敵の首領と斬り結んでいる。とりあえず、赤ん坊の頭を抱き寄せることで、視界も覆う。

「裕、泣かなくても良いぞ。安心しろ。この母も強いが、父上はもっとお強い故な…」

素直な述懐が果てるとほぼ同時に、敵首領の首が高々と掲げられ、それを呼び水に、混乱は終息へ向かって流れ出した。

 随分疲れた様子で、ダリューンがこちらへ歩み寄ってくる。柔らかな笑みを浮かべて、梨花はそれを迎えた。

「おかえり、ダリューン」

「……ああ、ただいま」

そのひとことめに、だいぶ戸惑った様子ではあったが、ダリューンも返事を返す。

「どうだ?私の言った通りだっただろう?」

「そうだな。まったく、大した慧眼だ」

まだ返り血も拭われていない頬に、苦笑が浮かぶ。

「そういえば、裕はどうした?」

「眠ってしまったよ。強い子だ」

「そうだな。本当に、良い子だ――」

混乱の余韻を残したまま、夜が明けようとしている。寝不足で光に弱くなった目をこらしながら、二人は、お互いの顔と裕の顔とを見つめ合って、ふっと穏やかに微笑んだ。

 

 ダリューンにとって意外だったのは、山を降りた梨花が、あれほど可愛がった裕を、あっさり人手に渡してしまったことだ。その相手は、宮廷を退いたかつての乳母だというが、まるで何の恋着も無いかのようにあっさりと赤ん坊を引き渡し、それについては何も語ろうとしなかった。

 それが、山を降りて十日ほど経ったある日、梨花はふと口をひらいた。

「……あの時、あの山の上で、あの子に何かしてやれる最良の人間は、間違いなく私だった。そのことには自信を持っている。だが、一旦山を降りたら、そこには、私よりももっと多くをしてやれる人間が大勢居るのだ。そもそもこんな、戦ばかりで家にも居つかぬ女を母に持ったら、子供が寂しかろう。だから、これでいいのだ。私もあの乳母に育てられたからな。幸せになれるさ、あの子は――」

はりつめた声が、語尾のところでかすかに揺れるのを、ダリューンは聞き逃さなかった。黙って梨花を引き寄せ、結い上げた髪を崩さないように注意しながら、優しく頭を撫でてやる。

「辛かった、な。だが、お前もあの子の母親だ。あの子を、誰よりも愛して、そのために、一番辛い道を選んだ。立派な母親だ。そのうち、育ての母が話すこともあるだろう。裕という名前をくれた、強くて優しい、もう一人の母親のことを――」

その言葉を聞くにつれて、梨花の端麗な口元が段々と引き攣れ、やがて涙がひと筋、ふた筋頬を伝って、最後には嗚咽が止まらなくなった。ダリューンには、今はただ、それを受け止めることしか出来ない。

 春霞の空から、冷たく冴えた風が一陣、下りてきて二人の心を洗っていった。麗かな、明るい春の一日であった。

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