春まさに爛けなんとする、暖かな一夜であった。出立を明日に控え、ダリューンはじめパルスの使節団は、夕刻、宮城に顔を出し、セリカ皇帝への挨拶を済ませた。それから、餞別の宴という運びになったが、ダリューンは、うかない顔で遠巻きからその様子を眺めるばかり、食事にも酒にも殆ど手をつけていない。

  壁際に控えていた女官が近寄ってきて、

 「何ぞ御気に召しませぬか、異国のおかた」

 と尋ねる。いや、そういうわけではないのだが、と謝るダリュ―ンの耳元に、女官が口を近づけた。

 「星涼公主様がお待ちです。この様子なら、しばし抜け出したところで誰も気付きますまい。仮にそうなっても、すぐに戻れば言い逃れのしようもありましょう。ご案内いたします故、こちらへ」

 辺りに目を配る様子の用心深さといい、身のこなしの鮮やかさといい、よく見れば一介の女官とも思えない。さだめし、梨花率いる娘子軍の娘であろう。その直感を信じて、ダリューンは娘の示す方角へ歩いた。

  誘われて辿り着いたのは、宴の会場からもそうは遠くない、庭園の牡丹の園であった。

 「では、私はここに控えております故、お戻りの際はまたご案内致します。あまり時間がございませんので、どうぞお早く」

 庭園の石畳を道なりにしばらく歩くと、小さな広場に辿り着いた。そこに咲いている一輪の花を見とめて、ダリューンは足早に駆け寄った。牡丹色の上襦、桜色の裳をひき、撫子色の領巾を羽織ったその姿は、繚乱の牡丹の中に薫り高く咲き誇る至高の華。梨花の面に、ダリューンが何より愛した、鮮やかな笑みが浮かんだ。

 「よく来てくれた。嬉しい」

 ダリューンの表情には、些かの逡巡が見られる。実はダリューンは、数日前、皇帝から呼び出されて、このままセリカに残らぬかと尋ねられていた。見返りには、諸侯の位すら提示されたが、ダリューンは申し出を断った。望めば多分、梨花と連れ添うことも出来たであろうに。そしてそのことは、梨花の耳にも入っている筈だ。

 「気にするな。おぬしがそんなに器用な真似が出来る男だなどと、最初から思っておらぬよ。それに、私がセリカに骨を埋めるしか無いように、おぬしが骨を埋めるべき土地もまた、パルスをおいてほかはない。違うか?」

 そんな心を見透かしたかのように、柔らかな笑みを灯した瞳で、梨花はダリューンの双眸を見つめた。そうだ、と軽く頷くダリューンの面にも、ようやく笑みが浮かぶ。

  それからしばらく、二人は何も言わず、お互いの瞳に見入っていた。相手の姿を、笑顔を、心に焼き付けて忘れぬように。それからふと、ダリューンが呟いた。

 「今日は、泣かぬのだな」

 それに対して梨花は、ひときわ嬉しそうな笑みで答えた。

 「泣かぬと決めたのだ。せっかくの最後だもの、一番綺麗な私を見て欲しい。それに、いくら別れが辛いといっても始まらぬ。なんだかんだでこの一年、この上なく幸せだったのだからな。この思い出はきっと一生の宝になる。それ以上を望むのは、ただの我儘だ」

 きっぱりした口調で紡がれる言葉は、とても清冽に響く。

 「強いな、リーファは」

 「それは違う。強くなれたのだ、おぬしのお蔭で」

 言いながら、梨花は左の耳元に手をやった。やがて差し出された掌には、銀と瑠璃の耳飾が載っていた。見まごう筈も無い、それは、戦場にあってさえ梨花の身を飾った愛用の品だった。

 「これを預けておく。この大きさなら、持って帰るにも邪魔にはなるまい」

 受け取っておいて、ダリューンは慌てて考えた。代わりに渡すものの持ち合わせがあったろうか。そんな様子を見て、梨花が苦笑する。

 「律儀な男だな…良ければ、その短剣を貰えぬか。それなら携えて歩ける」

 言われて取り出した短剣は、礼服に合わせて、装飾の多い華奢な造りになっているから、むしろ女性である梨花に似合うかもしれない。差し出された銀の短剣を、梨花は愛おしげに見つめて、帯に挟んだ。

  そこでまた、しばらく会話が途切れる。風の流れさえ止まったような静寂。それを破ったのはダリューンだった。感情にまかせて、梨花を掻き抱く。この一年、想いは重ねても、ひたすら控えめに振舞った男が、だ。その腕の中で、梨花は一瞬、身を硬くした。

 「ダリューン、おぬし……あっさり別れようと、思っていたのに――」

 「不愉快か?」

 「いや――幸せだよ、とても」

 吐息がついえる様に、硬くなった体から力が抜ける。そうして重なり合った唇の上に、静かな時が流れた。

  ややあって、結ばれていた腕がほどけ、まるで何事も無かったかのように、二人はまた、もとの位置に戻った。

 「そろそろ行け、ダリューン。これ以上こうしていると、別れが言えなくなりそうだ」

 きっぱりと言い放つその表情は、あくまで清冽で鮮やかな、あの笑顔のままだ。それに応えるべく、ダリューンもまた、穏やかな笑みを浮かべる。

 「ああ、そうだな、もう行く……リーファ、達者でな。幸せに暮らせ」

 たったひとこと。それだけの、ありふれた言葉に万感の想いを込める。

 「おぬしもな、ダリューン。そうして、銅虎将軍が申したように、大陸公路に冠絶する勇者になれ。おぬしの武勲を、いつも祈っている」

 なにものよりも愛おしい笑顔にふかく頷いて、ダリューンは踵を返し、振り向かずにそのまま、牡丹の花の向こうへ消えていった。その足音が消えて初めて、梨花は泣いた。崩折れて、身も世も無く、ただ一途に涙を流した。それだけが、たった今消えた恋に彼女が手向けられるすべてだった。

 新月の、淡い光が降りしきる夜である。今を盛りと咲き乱れる牡丹の花だけが、その様子を見ていた。

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