風が、柔らかに吹いていた。四月、盛りを前に、健やかに育つ春の気配が、そこここに感じられる一日である。無粋である筈の行軍にさえ、早くに咲いた花々が散り掛かり、明るい光に照らされた鋼に艶を添えている。少しだけくせのある髪を風に弄らせながら、ダリューンはぼんやりと、考え事をしてた。

  「なにを放心している」

 横合いからの、軽い衝撃。轡を並べていた梨花が、馬ごと体当たりをしてきたらしい。

 「いや、別に」

 「余裕だな」

 そう言って梨花は、ダリューンが、きっと生涯これ以上のものとは出会わないだろうと確信している、目映い笑顔を浮かべた。

  もうじき、すべてが終わる――太上皇派の兵士たちの中で未だに組織的抵抗をしているのは、これから向かう山に陣取った、黒備えの精鋭部隊・鴉軍の三千のみである。そして、これを片付けて西都永安府に戻る頃には、ダリューンの帰国予定日も迫っていることだろう。

  味方の兵数は一万、敵に三倍する兵力であるから、常識で考えれば楽勝の筈だ。しかし、鴉軍はセリカ最強の部隊であり、指揮官の銅虎将軍は、恐らくダリューンをも上回る力量の戦士だ。加えて、山の地形は知り尽くしている。万全を期さなければ、負ける。皆がその覚悟でいた。

  とりあえずは山の下に陣を敷き、充分な警戒をしつつも、遠路をやってきた兵たちを休ませる。ひととおりの指示を出すと、梨花は黙って何処かへ行ってしまった。このところ、それとなくダリューンと距離を置いたり、離れている時間を増やしたりしている。恐らくは間近に迫った別れを意識して、甘えなれた心を鍛え直すつもりでいるのだろう。一方で側に居る時は、それこそ一語、一挙手一投足の中にも万感の思いを込めて振舞う。その強さが、ダリューンにはかえって痛々しかった。

  セリカ軍でのダリューンの立場は、いわば客将であり、セリカ語も不自由だから、梨花がいなくなると、することが無い。仕方なくその辺りをそぞろ歩きしていると、そう遠くない位置から、笛の音が聞こえた。硬質に澄んだ旋律が、りゅうりゅうと響き渡る。詩心も歌心も無い身であるから、腕の良し悪しはわからない。ただ、心の底を洗われるような、清冽な音色ではあった。だが、曲調が物悲しいせいか、突き刺さるような痛さもともに感じる。興味本位に音の流れてくるほうへ歩みを進めてみた。

  演奏の邪魔にならぬようにと、気配を潜めて覗いてみると――笛を奏でていたのは、ほかならぬ梨花であった。鍛えられた鋼で出来た笛に珊瑚色の唇をあて、瞼を伏せて、一心不乱に音を紡いでいる。風に翻る衣の青が、曲の情感をひきたてる。パルスとセリカは、殆ど果てしないと言っても良いほどに遠い。別れれば、それが今生の別れになるだろう。それを熟知しているからこそ、乱れる心を何かに集中させねばならなかった。そして、そうすればするほど、悲しみが凝縮して、心を苛むのだ。その白い頬を伝った涙が、すべてを物語っていた。

  しかし、ダリューンも梨花も、そう長くはその空間に居つづけることを許されなかった。二人の肌を、同時に殺気が叩く。真っ先に動いたのは梨花の足元に横たわっていた白牙だった。低く唸って、近くの茂みに飛び込む。その茂みから飛び出した人影が梨花に踊りかかる。刃が、振り下ろされたようであった。しかし梨花は、流れるように動き、笛でその一撃を受け止めた。こういう事態を想定すればこその、鋼の拵えである。そして、狼藉者の動きが止まったところを狙って、白牙がその脚に喰らいついた。猟犬の、情け容赦無しの一撃である。狼藉者に、それ以上動けよう筈も無かった。

  捕らえられたのは、黒ずくめの姿に黒い紗の仮面を被った、見まごう事なき鴉軍の兵士であった。仮面を剥いでみたところ、まだ若い。梨花を暗殺しに来たようだが、百戦錬磨の戦士であり、誇り高い武人でもある銅虎将軍が、こんな姑息で不確かな方法を取るはずが無い。先走っての独断と見てよかった。

  ここでひとつ、問題が起こる。この男の口さえ割れば、鴉軍の配置も罠の有無も、梨花たちが欲している情報のすべてがわかる。それはいいのだが、若輩とはいえ、流石はセリカ最強の精鋭部隊の兵士である。剣を突きつけたところで無駄であった。

  となれば、残る手段は拷問にかけるしかない。しかし、誇り高く清冽な気性の梨花にとって、それは最も辛い決断でもあった。

 「花冠将軍、ご決断を。このままでは埒があきませぬ。それとも、ご自身の我儘ひとつで、助かるかもしれぬ我が兵に、過分な危険を冒させると仰るか」

 本陣の天幕の中に、幕僚の一人である、五十あまりの武将の声が響き渡った。正論である。また、それ故に梨花には痛烈な言葉でもあった。

 「…わかっておる。わかっておるが……いま少し、時間をくれ。今は、まだ――」

 消え入るように呟いて、梨花は天幕を出た。そして、足早に陣を離れ、昼間、あの鴉軍の男に襲われた所までやってきてみると――そこには、ダリューンがいた。

 「やはり、来たな」

 「何故、わかった」

 なんとなくだ。無抵抗の人間を拷問にかけるなど、即答できる貴女ではないことくらい、よくわかっている。迷ったとしたら、ここへ笛でも吹きにくるかと思った、それだけだ」

 「…聴いていたのか」

 「ああ」

 返事を聞くより早く、梨花はダリューンの顔から視線を背けた。

 「…わかっては、いるのだ。一軍を預かる将として、これ以上の我儘は許されぬ。なのに声が出ない。体が動かない。今まで戦場で殺戮を重ねてきた身が、おこがましいとは思うのだ。でも、私には駄目、出来ない……」

 泣き出しそうな声だが、瞳はからからに渇いている。心を張り詰めた果てに、涙までもが枯れ果てたのであろうか。

 「無理に心を殺して、鬼になる必要など無い。そんなことをしても、貴女が辛いばかりだ。そのままでいい。優しいままの、リーファでいろ」

 そう。ダリューンにとって梨花とは、強いというより、強くあろうとしている娘だった。強くあろうと一生懸命で、真っ直ぐで、けれど何よりも優しい清冽な心と輝くように目映い笑顔を持った娘、それが、ダリューンの愛した梨花だった。

  渇き果てたかと思われた梨花の双眸が、ゆっくりと潤み、やがて涙が溢れて頬を伝った。

 「ダリューン、おぬしは、優しすぎるのだ。その優しさに狎れてしまったら、お終いだというのに…なんで――」

 そこから先は、声にはならない。感情にまかせて、ダリューンは梨花を抱き寄せた。そして、子供をあやすように、軽く背中を撫でてやる。すると、それまで抗おうとしていた体から、すうっと力が抜けるのがわかった。

 「確かに、貴女の言うことにも一理ある。だが、俺は思うのだ。元々短い時間だけしか許されなかった、不可思議な縁なのだ。ならばせめて、許された時間だけでも、大切に慈しんで過ごせはしないか、とな」

 一瞬、嗚咽が途切れる。梨花の腕が、強く強く、ダリューンの体にしがみついた。

 「それと、リーファ。泣きたいなら、我慢せず存分に泣け。言っただろう、誰も見てはおらぬと。そうして、溜まったものをすべて洗い流してから戻るといい」

 熱い涙が、とめどなく零れて、ダリューンの胸を濡らした。けれどダリューンは、それで本望だった。彼が守りたかったもの、それは、決してセリカの正当なる皇統などではない。腕の中の、このちいさな愛しいいのちが、安心して泣き、笑い、安らげる場所――それこそが、セリカの広大な大地でたったひとつ、彼にとって守るべきものだった。

 

  梨花が泣き止んだのは、それから小一時間の後だった。流石に泣き腫らした目では帰れないから、まだしばらく、そこに居てダリューンに相談など持ち掛けた。つまり、あの鴉軍の男をどうすべきか。するとダリューンは、珍しく人の悪そうな笑みを浮かべて言った。

 「何、人の口を割らせる方法など、幾らでもあるものだ」と。

  翌朝、ダリューンは、男を陣の中で最も日当たりがよく、風通しのよい場所に連れてきて繋いだ。そして、男を取り囲むように、火の点いた松明を並べたのである。距離は慎重に測ってあって、決して男の体に炎が届くことは無い。しかし、実際に炎の輪の中央に立ってみると、その暑さは並大抵のものではなく、とめどなく汗が流れる。そのうえダリューンは、丁寧にも男に鴉軍の黒備えをすべて着せていたから、余計に暑い。輪の外から、それでも汗を拭いながら、梨花が呆れたように男を見ていた。

 「これは、確かに辛いが、しかし、間抜けな姿だ」

 それを横で聞いていたダリューンは、水の入った椀を玩びながら、口元に苦笑を浮かべた。

 「その通りだ。だが、並みの拷問より効くぞ」

 「これも、ナルサス卿とやらの入れ知恵か」

 「そうなるな。本当は、もうひとつ方法があったんだが…」

 ここまで言って、堪えきれずに吹き出してしまう。

 「どうした?」、

 「いや、むしろそっちのほうが手っ取り早くはあったんだが……まあ、悪ふざけが過ぎる策でもあるからな」

 釈然としないで首を傾げる梨花を、ひとまず置いておいて、ダリューンは一歩、輪に近づいた。手を差し延べて、男に椀の中身を見せてやる。

 「こちらとしても時間が無いのでな、出来ればさっさと喋って欲しいのだが、まだ意地を張る気でいるのか?」

 ダリューンを見返す男の目は、憤りと情けなさで溢れた、何とも言えず惨めなものであった。

 

  それから一刻ばかりの後、男はとうとう口を割った。無いものは我慢出来るが、目の前にあるものを我慢するのは至難の技だと言っていたナルサスの言葉が証明されたわけだ。

  その情報に従って立てた作戦はこうだ。敵の三倍の兵力を、敢えて二分する。それでもまだ五千と三千、数の上では優位だ。それで、二段階に分けて奇襲をかける。梨花は後続の部隊を指揮するから、問題は先発隊の指揮官人事だったのだが、梨花はあっさり、それをダリューンに委ねた。

 「ここで、私が一番信用しているのはおぬしだからな。他に誰を当てる心積もりも無い。おぬし以外に、銅虎将軍と相対できる者が居るとも思えぬし…頼む」

 >屈託の無い笑顔でそう言われると、弱かった。言葉の問題もあることはあるが、発音が悪いだけで、文法や聞き取りは流石に問題なくなった。そのほか、前々から一応、こういう事態のために考えておいた簡単な合図を組み合わせればどうにかなるだろう。そういうわけで、ダリューン率いる先発隊は、夜陰に紛れて出陣することになった。

 

  後発部隊が戦場に辿り着いたのは、先発隊に遅れること半刻あまりの後。眼前に広がる戦場の凄まじさに、梨花は思わず息を呑んだ。まさしく激戦である。間違いなく、今のこの戦が、今度の内乱で最も凄絶な戦だろう。燃え上がる敵陣には、累々と屍が転がされ、乱戦は至る所で継続されている。こうなることを予想したうえで、先発隊は精鋭を揃えたつもりでいた。しかし、それでも、滅びなんとしている鴉軍の最後の抵抗は、ここまで戦場を苛烈にしてしまったのだ。

 「ダリューン……」

 無意識のうちに、呟いていた。愛する男を、最も危険な戦場に送り込んでしまった自責の念が、鋭く胸に突き刺さる。

  しかし、ここは戦場である。そうそう物思いに浸っている時間が与えられる筈も無い。佩剣の鞘を払い、指示を出して、ひとまずは乱戦の収集をつけることに専念しようとした。

 

  それからどれだけの時間が経っただろう。返り血に汚れ、端々の痛む体で、梨花は戦場をうろついていた。敵味方ともに、最早指揮系統がどうにかなってしまっている。ただ、どうやら絶対数の少ない鴉軍が追い詰められつつあることはわかった。 

  戦場の端の、崖際に辿り着いた時。ふいに。斜め上からの強烈な殺気を感じた。大きく跳び退って、かわす。後ろを振り返ると、鴉軍の装いでありながら仮面をつけない黒髯の男が、巨大な片刃刀を振りかざしていた。赤銅色に焼けた肌と、左頬の白くひきつれた刀痕、なにより威圧感のある両眼。見まごう筈も無い、それは、鴉軍の総領、銅虎将軍であった。

 ゆっくりと間合いを計りながら、時間稼ぎをかねて、梨花は銅虎将軍に話し掛けた。ダリューンでさえ、勝てるかどうかわからない相手だ。一人では確実に負ける。

「今更私一人を討っても、流れは変わらぬぞ、銅虎将軍。すでに鴉軍は壊滅状態、太上皇陛下もお負けになった。今更巻き返しなど、無理ではないか。おぬしほどの男が、何故に滅びたものに殉じて我が身までも滅ぼそうとする」

返事は、無かった。どうやら意図を見抜かれている。

「流石だな、私の考え如き、お見通しか。そうだな、おぬしは私の、幼い頃よりの武芸の師であったものな……そして多分、私もわかっていたさ。おぬしの考えることくらいは」

その時、初めて銅虎将軍の顔に表情らしきものが浮かんだ。

「太上皇陛下が、公主殿下の御身を、案じておられました」

その一言が、梨花の面に、露な動揺を呼び覚ました。

「太上皇陛下が……話にのみ聞く、たかが庶出の公主のことを、何と?会うたこともない雲の上のお方を、今更お祖父様と呼べと?銅虎将軍、下手な嘘はよせ。皇帝陛下さえ、娘とは見て下さらぬ我が身を、太上皇陛下が、顧みてなど下さるものか。まして、私はあのお方の意に添わなかった者だぞ」

その言葉を紡ぐ間に、梨花の中で、ひとつの覚悟のようなものが定まった。剣を構えて、真っ直ぐに銅虎将軍を見据える。

「口先ばかりの言葉は、もういいよ。おぬしと私は、もとからこうして、刃で語る仲ではなかったか」

銅虎将軍の目に、諦めが浮かぶ。彼にとって、梨花は弟子。可愛くない筈は無いのだ。

 一瞬、刃と刃がぶつかり合う、澄んだ音が響き渡った。梨花の剣が、根元から折れ飛ぶ。銅虎将軍の刀が翻り、峰で梨花の体を吹き飛ばした。

 地面に叩きつけられ、息を詰まらせる梨花を見下ろしながら、銅虎将軍は、沈痛な面持ちで尋ねた。

「最後にひとつ、お訊きしてよろしいか」

「何だ?」

「貴女様は、何故にこのような、我が身を苛むような生き方をなさるのです。女性の身で戦場を駆け、男と張り合うなど狂気の沙汰、とても幸せだとは思えませなんだ」

梨花の唇に、自嘲に似た淡い笑みが浮かんだ。

「……私は、父上が嫌いだったのだ」

銅虎将軍には、それがどういう意味だかわからないようだった。

「簡単なことだ。おぬしも、私の母上がどのような亡くなり方をしかた、覚えておろう。あれが嫌だったのだ。一度は失った寵愛を求めるあまり狂い死にした母上の人生も、母上をそんなにした父上の言いなりに、どこぞへ嫁いで母上の二の舞になるのも」

銅虎将軍の目元に、さっと影がよぎった。言葉をかけあぐねているのが、手にとるようにわかる。そんな様子を見て、梨花は大きく、溜め息をついた。

「哀れんでくれるな。この人生、そう棄てたものではなかったぞ。格式に縛られずに、気侭にセリカの大地を駆け回って、おぬしと同じように、自分なりのやり方で、私の愛するセリカのために戦えた――それに、ダリューンに、あの男に出逢えた」

銅虎将軍の目の前に、誇らしく美しい、一人の女が居た。それは、彼が剣術や用兵を手ほどきした幼い星涼公主でも、敵軍の指揮官花冠将軍でもない、ただひとりの、劉梨花なのだろう。

「あの男の前でだけ、私は一人の女で居られた――幸せだった。この上なく。もし私にこの先の人生が与えられるとしても、あの男がくれたものを支えに、強く生きていける。それだけのものを、ダリューンは私にくれた。そういう、男だ」

銅虎将軍の口元に、淡く不敵な笑みが浮かぶ。

「だ、そうだ。聞こえておろう、異郷の騎士」

それは、静かな声であった。弾かれたように、梨花は顔を上げ、そして見とめた。黒衣黒甲を返り血で皆紅に染めたダリューンが、肩で荒い息をしながら、銅虎将軍の斜め後ろに立っているのを。そして、我知らず、涙を流していた。

 ダリューンは、何も言わない。聞きなれた梨花のセリカ語が、聞き取れない筈は無いのだが。それでも敢えて、無言で剣を構えた。

「リーファには手を出すな。貴公の相手は俺がする」

ぎこちないセリカ語で、きっぱりと言い放つ。それを受けて、銅虎将軍は、ゆっくりと踵を返し、片刃刀を構え直した。間合いを計り直しながら、じりじりと動く二人を、梨花は黙って見ているしかない。

 ややあって、二人の動きが止まる。ふいに、銅虎将軍が口をひらいた。

「異郷の騎士よ。おぬし、何故この戦に身を投じた。セリカとパルスの両国に利用されているのは、重々承知しておろうに」

「他人の思惑など知らぬ。俺はただ、リーファを守るだけだ」

「そうか。要らぬことを問いだてて、済まなかったな」

そして再び、張り詰めた沈黙が二人の間を流れる。やがて、刃のぶつかり合う音がそれを破った。

 剣の結界という言葉を以ってすれば、相応しい光景であろうか。ダリューンも銅虎将軍も、これまでの戦闘でかなりの体力を消耗している筈なのに、その動きは衰えるどころか、これまでに梨花が見たどんな剣士のものより速く、鋭く、強かった。そして揺るがない。明確な優勢はどちらにも無く、疲れも見えず、或いはこの立会いは、未来永劫に続くとも思われた。

 が、現実にはそのようなことが在ろう筈が無い。先ず最初にものを言ったのは、如何ともし難い、経験の差と実力の開きであった。気迫だけで、いつまでも持つと思うほうが甘い。ダリューンの左肩に、剣先で捌いたはずの斬撃が降り注いだ。それでも流石に、鎬の部分を擦っていたせいで、甲冑が飛んだほかは大した傷にはならなかったが、それよりも大きいのは心の衝撃の方だ。そこから生まれた焦りが更にダリューンを追い詰める。頬に、首筋に、剥き出しになった左肩に、次々と浅く、血の色がはじる。いつのまにか、勝負の優劣は誰の目にも明らかになっていた。

 その様子を、梨花は黙って見つめていた。血が出るほど強く、唇を噛み締めて、被風の端を握り締めて、声を殺しているその面は、一種凄絶なものを漂わせていた。彼女とて、目の前の二人には劣るにせよ、一流の戦士だ。その場には誰も立ち入れないこと、自分ごときの実力で割って入っても逆効果であること、そして何より、今ここで騒ぎ立てて二人の集中力を乱してはならないことが、よくわかっている。そんな梨花の澄み切った視界の中で、戦況はいよいよ決定的に動きつつあった。

 銅虎将軍の刀が、ダリューンの左肩を斬りつける。これもなんとか勢いを殺してはあったが、浅からぬ傷が残り、一気に大量の鮮血が飛び散った。蹈鞴を踏んで、ダリューンがあとずさる。それを見た銅虎将軍が、とどめと、大上段に刀を振りかぶる。一瞬、時が止まったかのように思えた。

 梨花に見えていたのは、銅虎将軍の広い背中のみ。それがゆっくりと揺らぎ、右手が刀を取り落とすのが見えた。

「…おぬし、まだこれほどの余力を残しておったか」

銅虎将軍の甲冑が、横一文字に大きく切り裂かれ、亀裂から血に染まった肉がのぞいている。致命傷と呼べる深さの傷であった。

「貴公を倒すには、これしか無いと思ってな。たった一撃、賭けをしてみたのだ。それを決めることができれば俺の勝ち、出来なければ、本当に余力が尽きて、逆に斬られる。難しい賭けだったが、どうにかものに出来た」

ぼろぼろに毀れ、血みどろになった剣を杖に、ダリューンはどうにか立っている。一方の銅虎将軍は、滲むように片頬で笑ったかと思うと、いっそ気持ちよいほどの哄笑を、高々と迸らせた。

「くく……ふふ、ははははは、おぬし、この私をたばかったか……よい根性だ。おぬしは、強くなろうぞ。大陸公路に冠絶する勇者になろう――羨ましいことよな」

一語ごとに一歩、銅虎将軍はあとずさり、正確に崖の淵に辿り着いた。その背中に、今だ昇りきらぬ太陽の光を受け、澱みの無い真っ直ぐな目で、ダリューンと梨花、二人を交互に見る。

「公主殿下、これにておさらばでございます――どうぞお幸せに。異郷の騎士、ダリューンとか言ったな。公主殿下を、頼んだぞ」

言葉の終わりとともに、あまりにも自然に、事も無げに、銅虎将軍は、巨体を空に躍らせた。

 太陽が昇りきっていた。戦がどうなったかはわからないが、とにかく辺りは、恐ろしいほどの静寂に包まれている。ダリューンも梨花も、動けないままにその場にいた。

 静寂を壊したのは金属の砕ける音。酷使に耐えかねたダリューンの剣が、あっという間に、半ばから折れた。ダリューンには、もうそれに応じて態勢を立て直す力も、立ち上がる力すらも残っていない。慌てた梨花が、駆け寄って手を差し延べ、支えようとする。しかし、女の細腕で大の男を支えきれる筈も無い。二人折り重なって、倒れてしまった。とりあえず梨花だけが起き上がり、上半身だけは態勢を整えて、ダリューンを抱え起こした。

「ダリューン、よく、無事で…良かった。本当に、良かった――」

間近に顔を見るが早いか、安堵の息をつくより早く、涙が溢れた。その涙を、血と泥に汚れたダリューンの指が拭う。白い頬に、薄赤く縞模様が描かれた。

「心配するな、大事無い。だから泣くな」

言われたところでそうそう簡単に泣き止めるものでもない。止まらない涙が、戸惑ったような表情の上に零れる。その温かな感触が、ダリューンには妙に嬉しかった。

 ややあって、ふと逸らした視線が、手近の木の上に、何か白いものを捉えた。疲労に霞む目をこらして見つめる。澄み切った朝陽を受けてほろほろと零れるそれは、雪よりも白く冷艶な、花のひと群れであった。

「リーファ、あの花は、何と言う?」

問われて、涙を拭い、ダリューンの視線が向く先を追いかけた梨花が、ふわりと、双眸に笑みを灯した。

「ダリューン、あれが、私と同じ名を背負う花――梨花だ。見せてやるといっただろう」

「そうか……美しい、花だな――」

梨花の横顔と、光を受けて輝く花とを交互に見て、ダリューンはひとつ、大きく吐息をついた。その息が絶えるのと同時に、緩やかに意識が遠のく。あとにはただ、健やかな寝息が残った。

 一陣の風が、二人のもとへ花嵐を吹き寄せる。梨花は思わず、ダリューンを抱く腕に力をこめた。これ以上散るなと、無理な願いを、同じ名を負う花に寄せる。それは、祈りに似た想いだった。たったひとつだけ願いが叶うなら、どうか白い花よ、散らないで、このままでいておくれ。時間よ、止まれと、祈らずにはいられなかった。

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