坂を登りきった向こうには、視界いっぱいの蒼穹が広がっている。目に痛みを覚えて、ダリューンは一瞬、馬の脚を止めた。

「どうした、ダリューン。早く来い」

坂の上から、澄んだ声が突き抜ける。逆光で顔は見えないが、ほぼ確実に、あの空の色よりも眩しい笑顔を浮かべているであろう人が、鞍上から手を振っている。苦笑を返して馬の歩みを進め、鞍を並べると、予想通りの鮮やかな笑みで、星涼公主は迎えてくれた。

 今日、二人は、セリカ第二の大河・雷河を見に遠乗りしてきたのだ。都の西都永安府も雷河に面してはいるのだが、公主が言うには、ここからの眺めが一番雄大なのだそうだ。最初、ダリューンはそれを遠乗りの口実かとも思ったが、ここへ来てみると、成る程、公主の言葉は混じりけなしの真実であった。高台から見下ろしているせいで、はるかにうねる大河がゆるやかに浅緑の平原を縫い、やがて空の蒼と溶け合って地平線に消える様がはっきりと見て取れる。深い藍に一抹の緑を含んだ水面の色も美しい。

「…絶景だな」

「だろう?もっとも、これでもセリカでは二番目の大河なのだけどな。とは言っても第一の大河は、私も見たことが無いが」

無理からぬことだ。セリカの国土は途方もなく広い。その中で、第一の大河竜江は南の、第二の大河雷河は北の端近に存在する。その間だけでも国幾つ分もの隔たりがあって、それは、いかに型破りとはいえ、皇室の姫君が気まぐれひとつで走破できる距離ではなかった。

 ふいに、公主の目が遠くを泳いだ。闇色の美しい瞳に、空と溶け合う水の藍が映って、一瞬えもいわれぬ輝きを宿す。けれど、それは決して、闊達なものではなかった。

「ダリューン、おぬしは、海を見たことがあるか?」

「遠目になら、何度か」

セリカには及ぶべくも無いが、パルスも広い。ダリューンはその中でも内陸の生まれであるから、それこそ軍務で沿岸部に赴く用事でもなければ海は見られない。そして公主はなおのこと。彼女の生まれ育った西都永安府は、セリカでも内陸部の、かなり奥地にある。海への道は、やはり雷河から竜江までと等しい遠さだ。公主は気まぐれで時折国境地帯の砂漠へは足を運んだが、これは海までの距離の十分の一にも満たない。もしかしたら彼女は、一生海を見ずに過ごすかもしれないのだ。

 空と水を映す深い色の瞳が、まっすぐに水平線を見据えている。

「この河は、海へ向かっていて、その海は、パルスの海とも繋がっているのだよな――」

泣き出しそうにも見える公主の横顔に、優しく頷いてやる。すると公主は、「そうか」と呟いて、結い上げた翠雲に手をやった。

 白い繊手が滑るように空を動き、あわせて艶やかな黒髪が解け落ちる。指先には、髷の要となっていた銀の簪が挟まれていた。一瞬、いとおしむような目つきでそれを見下ろすと、今度は決然と面を上げ、大きく勢いをつけて、それを放った。簪は綺羅きらと輝きの放物線を描き、河の色の中に吸い込まれてゆく。

「…流れてゆくがいい……流れてしまえ。パルスまで、届け――」

気丈に反らした肩が、かすかに、細かく震える。それを支えてやりたい衝動に駆られながら、ダリューンは、ゆっくりと噛み締めるように言った。

「届くといいな…いや、必ず、届く――」

 考えてみればそれは、それこそ途方も無い、絵空事のような望みであった。けれど、届かなければあまりにも哀しすぎるではないか――そんな想いで、二人はずっと、蒼く溶け合う水と空とを見つめていた。 

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