回廊の石畳を、足早に抜けてゆくふたつの音がある。ひとつは硬い軍靴の響き。もうひとつは、女物の靴の柔らかい響き。歩幅の違いのせいだろう、後者のほうが刻みが細かい。その上に、甲高い声が重なった。

「待ってくれと申しておる、ダリューン卿。聞こえておらぬのか?!」

声の主――桜色の衣を纏った、十六、七歳の少女は、彼女に背を向け、大股に去ってゆく黒衣黒甲の男に向かって叫んだ。返事は無い。

「おぬし、戟の扱いを学んできたのであろう。帰ってきたら手合わせをと、前々から頼んでおったではないか。その技、見せてはくれぬのか」

男は脚を止めたが、しかし、振り向く気配とて無い。二人の間に、深くて重い、沈黙の河が流れた。

 少女の名は星涼公主といい、このセリカ帝国の皇帝の娘で、花冠将軍の二つ名を持つ、果敢な女騎士でもある。男の名はダリューン。西方パルス王国から訪れた使節団の一員で、公主とはこの都、西都永安府に到着する以前から何かと縁が深い。この日ダリューンは、公主に紹介された戟の達人のもとでの訓練を終え、宿舎に戻る前にと挨拶に訪れたのだ。そこへ公主が手合わせを申し込み、こじれた末にこの有様である。

 「ダリューン卿!」

沈黙に耐えかねたかのように、公主が叫ぶ。しかしダリューンは、振り向きもせずに苛立った声で、

「仮にも某はパルスの使者。公主殿下に手傷を負わせるわけには参りませぬ!」

と怒鳴り棄て、再び足早に歩き始めた。

 回廊を突き抜けて中庭に出ると、真夏の強烈な陽光が二人の上に降り注いだ。

「もし私に何かがあっても、誰にもそなたの責任は問わせぬ。原因はすべて私の我儘。だから、頼む…」

「某の立場もお考えいただきたい!」

消え入りそうな公主の声を、冷厳に突き放す。淡く涙を含んだ瞳で、公主はダリューンの背を見据え、唇をきつく噛み締めて、腰の剣に手をかけた。

「これでもか!」

瞬間、黒いマントの裏地が――鮮血のような紅の色が翻り、ほぼ同時に、澄んだ音が中庭に響き渡った。公主の剣は、ダリューンの振り向きざまの抜き打ちを受けて半ばから折れ、石畳の上に転がった。その上に、巻き添えをくらった夾竹桃の一枝が落ちる。紫みを帯びた赤い色が、目に染みるように痛い。

 へたへたと座り込んだ公主を一顧だにせず、ダリューンは剣を納め、再び歩き出そうとした。

「…随分と、他人行儀になったものだな」

独り言のように、公主が呟く。

「砂漠で始めて会うた時のおぬしは、そうではなかった。あの時は、立場がどうのこうのと言いながら、結局助けてくれたではないか…優しい、男だったではないか――」

ダリューンは、その言葉に対して表情を強張らせたが、公主にそれが見えるはずも無い。そして今度はダリューンが、苦悩に満ちた声で呟いた。

「そう仰る貴女も、他人行儀になられた」

遠ざかってゆく足音を聞きながら、公主は低く、嗚咽を漏らした。

 灼熱の陽光の下、公主はそこを動かなかった。石畳に座り込み、俯いて、折れた剣を放り出し、夾竹桃の花一枝を握って。

 やがて、音もなく鈍色の雲が空を覆い、遠雷の音に続いて、ぽつりぽつりと、雨が降り始めた。ほどなくして、細い絹糸が天と地とを繋ぎ、かすかな音と銀の紗のような水滴で、世界を閉ざし始める。激しくは無いが、静かで心地好い、夏場の驟雨であった。

 ふいに。公主は、軍靴の足音が後ろで止まり、雨の感触が途絶えたことに驚いて、面を上げた。

「……ダリューン」

黒衣の騎士がそこに立っていて、マントを広げて傘を作ってくれていた。

「濡れるぞ」

上向けた視線を正面へ動かしながら、そっけなく呟いた。

「かまわん」

それに対する答えも、またそっけない。しかし、公主の濡れた体には、充分な暖かさだった。

「ありがとう」

二人の目が、雨に支配された中庭を映す。静かな世界の中央に、しっとりと潤った、紅の夾竹桃が咲いている。

「花が、綺麗だな――」

どちらからともなく、そんな詠歎が零れる。そして見交わした瞳に、穏やかな笑みが灯った。

 森羅万象が、今は雨の中にある。天空より訪れしたおやかな使者が、大地を炎熱から解き放ってゆく、その中で、二人はしばらく、夾竹桃の花をみつめていた。  

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