いや、それは、困る。困って済む話ではないが、困る。いやいや、困っている場合ですら無い。もっと他に、湧いてくるべき感情があるだろう。考えることがあるだろう。ここで真っ先に困っている自分は、人間としてどうなのだ、一体。

 電源を落としたモニターの前で、ゼクス・マーキスは頭を垂れた。

 いやいやいや。何が何でも、困るものは困るのだ。

 具体的に、何がどう困るのかと言われて、自分でもまったく分からないのだが。

 業務上の差し障りは、ある。が、致命的でフォロー不可能かと言われれば、そんなことは絶対に無い。軍隊育ちで、身の回りのことも一通り出来る。いや、だから、そういうせせこましいレベルの話ではなくて、何かもっと、肝心なところで。

 ルクレツィア、君が居てくれないと、困るのだ。

 

 事の顛末はこうだ。

 火星のテラフォーミング計画に従事するスタッフは、一か月に一度のメディカルチェックを義務付けられている。いつものことなので、何の気にも留めずに妻を送りだしたら、夕方になって連絡が入った。

「実は、しばらくそちらに帰れなくなりまして」

 モニターに映る彼女は、何故か笑顔だった。

「これを見て頂きたいのですが」

 画面が切り替わり、モノクロの粗い画像が映し出される。そこに映った、黒い影のようなものが二つ――一体何だ?

 そこで再び、画面が元に戻る。

「あの……何の画像だったか、分からないですよね?」

「当然だろう。何なんだ?あれは」

「……妊娠しているのだそうです」

 がんっと一発、頭を強打されたような衝撃に襲われた。

「…驚きました?」

「…驚いた」

 というか、その可能性は殆ど考えたことが無かった。今まで二人でしてきたことを思い返せば、あまりにも当たり前すぎる状況なのだけれど、それでも。

「もうひとつ、驚くようなことを言ってもいいでしょうか?」

 と言われても、最早抵抗する気力も無いし、嫌だと言っても事実は変わるまい。

「双子なのだそうです。先程の画像に黒い影が二つ映っていたと思いますが、要するにそれが…」

 分かった。ある意味、とてもよく分かった。が、現実認識と感情が上手く釣り合わない。表情が作れない。今取っているこの態度が、恐らく女性に対して失礼千万であることくらいは、分かっているのだが。

「…すまない、ルクレツィア、驚き過ぎて上手く言葉が出ない――」

 挙句の果てに、そんな情けないことを口走る始末だ。モニターの向こうで微笑む愛妻は、そんなことはお見通しですと言いたそうだが。

「ですが、ここからが問題です。双子は何かとリスクが高いので、私は現場には戻らずに、ここで経過観察をして、時期を見て医療設備が整った病院に入院しなければいけないそうです」

「つまり?」

「無事に生まれて、その子たちを移動させられるようになるまでは、そちらに帰れなくなりました」

 そうだった。驚き過ぎて忘れていたが、話の初めはそこだった。それは困る。とても、とても。

 

 それから多少、実務的な引き継ぎ話をした。詳細は後日、文書に纏めて送信されてくるらしい。彼女のことだから、相当しっかりしたものが届いて、それで恐らく、日々の業務は滞りなく回るようになるのだろう。

 だから自分は、一体何を困っているのか。

 すこし考えてから、我ながら呆れる。

 要するに、ただ彼女に、側に居て欲しいだけではないか。何をしてくれるとしても、してくれないとしても。そこに居て、一緒に寝起きをして、食事をして、必要なことや必要無いことを話しては、日が暮れていくような、他愛のない毎日。それが愛おしいだけではないか。

 そう思ったら、反射的にもう一度、モニターに電源を入れていた。メディカルセンターに通信を入れ、彼女を呼び出して貰う。

「どうしました?」

 愛する妻は、訳知り顔で微笑んでいる。

「重要なことを言い忘れていた。身体を大事にしてくれ。その、何だ…何かあっては困る」

「そうですね。医者の言うことには、きちんと従いますよ」

「事情が事情だから、『早く帰って来い』と言うわけにもいかないが…正直、君が居てくれないと、私が困るのだ。だから…せめて今後、何事も無いように、大事にしてくれ。以上だ」

「ふふふ…そんなことは、とっくにお見通しです。先の事は私にも分かりませんが、微力を尽くしますよ」

 嫣然という言葉が相応しい、あでやかな笑みが、モニター画面を彩る。手を伸ばしても、それに届かない距離に居ることが、心の底からもどかしい。

「それで、生まれるのは何時の予定なんだ?」

「もうすこし成長したら、その大きさから逆算して予定日を割り出すそうです。一応今の所、暫定で六週目くらいではないかと。それなら、予定日は四十週ちょうどですから、あと三十四週間――おおよそ八ヶ月後ですね」

 正直、遠いと思う。後から思えば、案外あっという間だったという説も成り立つのかもしれないが、今この時点では、想像などつく筈も無い。

「ざっと二百四十日…数えていればすぐですよ」

 彼女にこれを言われると、返す言葉も無い。たまには逆の立場になってみろということか。

 いや、違う。ゼロになることが分かっている数字を減らし続けるのと、幾つまで増えるか分からない数字を数え続けるのとでは、決定的に違う。己の莫迦さ加減を――こんなところで思い知る。

「そういう貴方こそ、身体に気を付けて下さいね」

 そんなことを言う、モニターの向こうの笑顔には、最早白旗を揚げるしか無さそうだった。

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