得体の知れない息苦しさを、いつも胸に抱えていた。

 夜中に目覚めると、決まって締め付けられるような痛みを感じた。

 それに耐えて生きるほど、やりたいことがあるわけじゃない。何だったら眠りに落ちて、朝が来る前に死んでしまえたらとさえ思う。

 だけど、もうどうでもいいと思うたび、不思議と湧き上がる、この胸苦しさは何でしょう。

 本当は、ずっと誰かに、聴いて欲しかった。

 だけど、それよりもっと前から、誰にも心を開いたことなんて無かった。

                         

 

 ああ、目が覚めちゃった、と思うようになったのは、いつからだろう。ということは今、朝の7時で、とっとと起きてしたくをしないと、学校に間に合わない。行きたくない――と思いながら、開けてしまった瞼をぎゅっと閉じるけれど、もう眠たくはない。それなのに手足は重い。

 学校には行きたくない、でも行かない理由なんかない、いつもの朝が来た。

 携帯に舞い込む何通ものおはようメールに適当な返信を打ち、あまりおいしくないパンをかじって寝癖のついた髪をブローして、そうこうするうちに時計の針はどんどん進み、時間に遅れないようにと家を出る。いつものようにバスは混んでいて、座れもしないのに、今さら眠気が戻ってくる。思わず単語帳に顔を伏せたら、バスが急停車して、転びそうになった。

バスを降りると、目の前にもう、学校がある。はあ、着いちゃったな、と思って落とそうとした、その肩を叩かれる。

「おはよ、詩織」

振り返るまでもない、聞き慣れた声の主は、千里という。中学からの友達で、去年までは高校でも同じクラスだった。親友の千里――と、人には言う。

「おはよう」

振り返ると、千里はいつものように自転車を押していた。同じ中学だったとはいえ、お互いの家はかなり離れていて、高校に上がった後、私はバス、千里は自転車で通学するようになったのだった。

「詩織、また夜更かしした?」

「え…別に、昨夜は1時くらい」

「そう?まだ眠そうだよ」

「そういう千里も、また遅くまで勉強してたんじゃない?」

「まあ、ほどほどに、ね」

そんなことを喋りながら、2人は校門へと続く、だらだらした人の流れに乗っていく。けっこう速いくせに、決してスムーズではなくて、障害物がやたらと多く、絶対に自分のペースでは進めない流れ――それはまるで、高校生活そのものにも思える。

 

 中学3年生の頃は、高校受験で人生が変わってしまうんじゃないか、という、正体不明の強迫観念に襲われていた。結局、私はそこではコケなかったし、友達もみんな、それぞれまっとうに進学していったので、それが嘘だったか本当なのかは、今でもわからない。ただあの時は、家から通える範囲にある学校をリストアップして、偏差値とにらめっこして、神経をすり減らしながら志望校を選んだ。ある意味、それだけでよかった。

 それから3年が経ち、今度は大学受験という山が来る。今時、普通科の高校生に就職なんて道はないみたいなものだし、したくても多分、採用がない。時代は確実に不景気で、明るい未来の約束なんて、どこにも無さそうに思える。

 とりあえず、東京のぎりぎり23区外に生まれ育ったというのは、ラッキーなことだとは思う。家を出なくても、大抵の学校には行けるんだから。親は、家から通えればどこでもいいよ、と言うし、大体、家を出てまでやりたいことがあるわけじゃないから、きっとまた、通える範囲の適当なところで手を打つんだろう。

 きっと――それで、何も変わらない明日が来て明後日が来て、来年も再来年も来る。その延長線上で、つまんない大人になって、多分そのうち結婚なんかもして、子供生んじゃったりして…?そんな、あまりにもリアリティのない空想が浮かんできたところで、現実に返った。

 現実はといえば、今、机の上にある進路希望調査だ。2年生の後半で、最初にこれを出させられた時は、思いつくままに適当な都内の大学の名前を書いてみたんだけど、偏差値も傾向もあまりにバラバラで、何も考えていないことが丸分りだったので、後で担任から小言を言われた。

 何を書いていいかわからないままに、逆に私は、東京生まれのアンラッキーを思う。大抵の学校に行ける、ということは、選択肢がものすごく多い、ということだ。どうしても好きな何かとか、絶対やらなければいけない何かが、ありさえすればいい。それを持っていれば選べる。千里みたいに。

 千里は税理士事務所の1人娘で、小さい頃からお父さん子だった。将来は家の跡継ぎ。それは、知り合った頃にはもう規定路線になっていた。だから千里は、早々と私立文系のコースを選び、経済学部に狙いを定めて、あとは偏差値次第で大学を選ぶんだろう。訊いたことはないけれど、本人の心の中の第一志望は、お父さんの母校でもある大学のようだった。

 一方私はといえば、得意教科は強いて言えば英語、苦手教科は敢えて言うなら数学、という感じで、国立向けの成績だったんだけど、それだと都内の大学は厳しい、という偏差値ではあったので、深く考えずに千里について私立文系のクラスに来た。英語が得意なんだし、とりあえず英文科か英語科――という話も、他人の口からちらほらとは聞くけれど、じゃあ4年もみっちりやって飽きないくらい好きか、と言われると、正直微妙だったりする。

 そして、1番困ることに、じゃあ何なら好きなのか、と言われた時に、何を答えていいか、私にはわからなかった。

 結局、わからないものはどうしようもなくて、時間いっぱいまで一応悩んだフリをして、適当な大学名だけを書いて用紙を提出した。もう3年生なんだけどなぁ、と思うと溜息しか出てこない。目的も無いのに、「受験する」ということだけは決まっていて「受験勉強」というものだけが、黙々と進行している、変な毎日が、こうしてまた、無駄に過ぎていった。

 

 学校帰りのマクドナルドには、他愛もない話の輪が広がる。家に帰る前の気晴らし、塾に行く前の腹ごしらえ、時間つぶし――いろんな理由があるけれど、誰も、何となく集まったら、ポテトやパイと一緒くたに、当たり障りのない話をかじる。昨夜のドラマの話、クラスの噂や先生たちの悪口、親へのグチ、どれも、誰もが持っていて、とりあえず誰にでも通じる、とされるもの。

「…で、テラサワ、中間の範囲どこまでだって?」

「ちょっと待って…あ、ここ。例題10までって言ってた」

「うっそ、こんなに?!ムリ、絶対ムリ」

ゴールデンウィークが終ると、なぜかあっという間に、1学期の中間試験がやってくる。その日、隣のクラスで古文の先生がその試験範囲を言い出した、というのが、その日の最初の話題だった。

「でさあ『広すぎ』って言ったら、テラサワさあ、これも全部受験の範囲だからー、とか言うんだよ。あームカツク。てか、やらねーだろ、古文なんて」

だよねー、と相づちを打ちながら、頭の中に浮かんでくるのは、古文漢文はセンターで1番、満点を取りやすい科目なんだよ、という千里の言葉だった。千里はここにはいない。毎日、学校が終るとその足で電車に乗り、予備校に向かう。授業が始まるまでは、自習室にいるらしい。

 やらない、と言った古文のテスト勉強を、本当にやらないのは一体誰だろう。1度でいいから、誰かのノートをのぞいてみたい、と時々思う。やってない、一夜漬けだから、もう忘れた――そんな、テストの前後の日常会話は、一体どのくらい本当なんだろう。

 私にとっては、それはほとんど、決まりきった挨拶でしかない。朝10時に起きても11時に起きても、最初に顔を合わせた家族には、おはよう、って言うみたいなもの。言葉自体に意味なんかなくって、ことによったら、裏腹。

 気の小さい私に、勉強しないでテストに臨むなんて、絶対にできない。両親はおおらかなので、成績がちょっと上がったの、下がったのと言って大騒ぎするわけじゃないし、下がったから具体的に、何がどう困るのか、本当のところはわからない。だけど、中学生の時にはすぐ横に、それが当然、という顔をしてガリ勉する、千里がいた。千里を見ていると、ああ、私もやらなきゃ、という気持ちにさせられた。

 真面目よねぇ、と人は言う。怖いだけだってば、と返そうとして、どうしてもその一言が、喉に詰まったまま出てこない。なぜならそれは、今この席で交わされている、意味なんか無いに等しい言葉たちとは、重さが全然違うからだ。そういう重さを分かち合う相手を、私は持っていない。場違いな重い話をして、この場所で浮いてしまうほど、ばかじゃない。

 気がつけば外は暗くなっていて、誰かや誰かの塾の時間も近い。最初に、私もう行かないと、と言ったのは誰だろう。その一言で、流れ解散が始まる。

 私には、今日は何の予定もない。まだテスト勉強を始めるには早い時期。でも受験生なんだから、あんまりフラフラしているわけにもいかないんだろうなぁ…と思うだけは思って、まだ具体的にはほとんど何もしていない。それでも、家に帰ればお母さんが晩ごはんの用意をしていて、そのうちお父さんも帰ってくる、いつもの毎日が続くだろう。

「帰りたくないなぁ…」

朝起きた時は、学校に行きたくない、と言っていたくせに、帰りぎわにはつい、こんな呟きがこぼれてしまう。隣にいた子が、え、何?と尋ねてきたのを、適当にごまかしながら、お店を出た。

 

 千里と知り合ったのは、中学2年の時だった。たまたま同じクラスになって、席が前後ろになったから喋るようになって、そのまま何となく、ずっと一緒にいる。

気が合うんだね、と人には言われる。確かにそうだろう。千里はあんまり、ほかの女の子が好きな、意味の無い言葉を使わない。本気であと何キロとか何も思ってないのに、口癖みたいに「痩せたい」なんて言わないし、心にもない陰口に上手く調子を合わせたりしない。だから、千里といると気が楽だった。私は、目の前の人に何か言われると、そんなことカケラほども思ってなくても、愛想笑いをして頷いてしまうから。

でも、だから千里は友達がすくなくて、女の子のグループからはいつも外れていて、それでも大して辛くなさそうに、学校が終るとすたすたと塾に行く。私は、千里と、クラスの女の子たちのグループとの間でコウモリ生活をしているから、お昼に1人になってしまったり、休み時間や教室移動の時に、ぽつんとしていることも少なくない。それでも、恨み言ひとつ言わないで、平然としている。

「受験勉強?うん、今、1年生の復習が終わって、2年の途中。けっこう忘れてるよね、日本史とか」

その日の昼休みも、私の問いかけに、あっさりとそう、千里は答えた。ひけらかすわけでもなく、ただあったことを、あったままに、という口調で。

「偉いなぁ、私、まだ何もしてないよ」

この場合の「何もしてない」は本当だ。とりあえず千里みたいに復習から始めればいいのかもしれないけど、どうしても気が乗らなくて、買ってきた参考書は開かれないまま、机の片すみに置いてある。

「駄目じゃん、詩織、そろそろ始めないとヤバイよ。3教科だけでも、3年分はけっこう分量あるし、志望校決まったら、その対策も要るんだしさ」

その通りだ、確かに。そして千里は、こういうところで、当たり障りが無いだけのリアクションをしたりはしない。私のことを心配してくれているので、真面目に本当のことを言ってくれる。

 そんな千里の鞄には、もうばっちりと、志望校の赤本が入っていた。まだ去年のものだから、新しいバージョンが出たら買い換えるんだろうけど、とにかく、もう手際よく、対策を始めていたわけだ。

 千里といると楽だった。なぜならそこは、あえて嘘をつかなくても、生きていける場所だから。

 でも、千里といると苦しくなった。なぜなら千里は、あんまりにもしっかり生きていて、自分の空っぽさ加減が、嫌っていうほどわかってしまうから。

 嘘をつかない私には、本当の中味は何も無い。将来の夢も、目標にする人も、やりたいことも――ついでに彼氏もいない。見事に空っぽだ。だから、このままじゃダメだ、と思っていても、右にも左にも動き出せない。

 

 何もしないうちに恐ろしい速さで時間は過ぎて、夜になり朝が来る。また学校に行く。こうやってもう何日、無駄にしたんだろう。何か始めなきゃ、と気持ちの裏側だけで焦りながら。

 午前中最後の授業は英語だった。その日は誰ともお昼の約束をしていなくて、じゃあ千里のところかな、と思って、席を立とうとした時だ。1列挟んだ隣の席から、声をかけられた。

「成瀬さーん」

日に焼けた顔と、クリッとした大きな目、くっきりした眉。平均やや低めの身長と、その割にがっしりした体格は、何か体育会系の部活で活躍している、と言われたら、すんなりくるだろう。

「ノート貸して」

「また?もう、いい加減にしてよね、高いよ?」

と言いながら、さっき閉じたばかりのノートを差し出すと、隣の男子――長谷部悠太という――は、神妙な顔をして頭を下げた。

「ホントごめんね、助かる、マジで」

そう言いながら拝むように両手を合わせてもう1度頭を下げると、長谷部はノートを受け取った。

 こいつは決して、引退前の部活が忙しくて、朝練の結果、睡魔に負けたわけではない。

 長谷部悠太。この、どう見ても地味で真面目そうで人畜無害そうな彼が、実は、学年一の問題児だった。

 騒動が起こったのは、1年生の秋の三者面談らしい。私は3年生になるまで長谷部とはクラスが別で面識が無かったから、噂でしか聞いたことがないけれど、何と長谷部はその席で、当時の担任相手に、僕はミュージシャンになります、高校はきちんと出るけど進学はしません、と言い放ったのだそうだ。

 夢を見るのは勝手だと思う。そして、十代の少年少女は時にバカな夢を見るものだと思う。だけど、実際に自分にモラトリアムを許さないで、そのバカな夢のために本気の努力をしてしまう少年少女は、そうめったにいるものじゃない。ましてやそれが、千里のように「家の後を継いで税理士に」なんていう現実的なものじゃない場合。

 もちろん教師は、唖然として長谷部を説得しにかかったのだそうだ。だけど、実は長谷部はそれまでに、何ヶ月も家で、家族相手にその話をしていて、親も諦めた後だったんだとか。そんなこんなで、結局は担任も諦めるしかない。

 それ以来、進学校で通っているこの高校の中では、長谷部悠太はピカイチの異端児だった。

 とりあえずは、進学する気がない、というだけでも、この学校の中では浮く。それがまた、いかにもドロップアウトしていそうな奴ならよかったのに、長谷部ときたら、夏前までは陸上部で頑張っていて、成績も悪くはなく、見た目ときたらあんなに普通、むしろ善良そうで。

 それなのに長谷部は、周囲が寄せる好奇の視線を平気で流して、部活は辞めても毎日時間通りに学校に顔を出し、授業を受けている。成績はだいぶ下がったらしいけど、それでも赤点を取ったことは無いそうだ。で、そんなに真面目なのに授業中に睡魔に負けるその原因は、ミュージシャンになると言い張って日々つづけているバンドの練習と、そのお金を作るためのバイトらしい。

 「長谷部さあ、」

つい何となく、私は話しかけていた。

「エライっていうか、何ていうか…進学する気ないのに、よく頑張るよね」

正直に言うと、半分以上呆れている。最低限、赤点でさえなければ卒業はできるんだし、それならそれで、彼の将来には、多分、何の問題もないんじゃないか、という気がするから。

 だけど長谷部は、律儀にノートから顔を上げると、ああ、という顔をして、スポーツ少年風の笑顔を浮かべる。

「一応ね、高校だけはちゃんと出るっていうのが、親との約束だからさ。決めたことだし、迷惑かけてるのは事実だから、約束くらいは、きちんと守らないとね」

「バンドの練習って、毎日あるの?」

「いや、他のメンバーの都合もあるから、週5日くらいかなぁ。俺、それも色々、迷惑かけてるんだよね」

「はい?」

「俺だけ高校生だから。補導されちゃうでしょ、11時までに上がらないと」

今時、バンドをやっているから不良少年だなんて道理はないんだけど、長谷部の言うことは真面目すぎて、普通すぎて、なんだか笑える。

「だからさ、うちのリーダーが仕事終ってスタジオに来るのが、大体9時過ぎなんだよね。そっから1時間半くらい、必死に詰め込んで、ギリギリの時間になったらダッシュで帰る」

多分こいつは、真面目すぎてドロップアウトしたんだなぁ…という気が、何となくしてきた。どうやら千里と同じで、あんまりにも頑張って生きているから、意味のない会話が出来ないらしい。もうちょっと小器用な性格だったら、例えば大学に入って、時間を作ってからバンドをやるとか何とか、もっと楽なやり方があるような気がする。でも長谷部には、それはできない相談なんだろう。

 千里、という名前が出てきたところで、ふと思い出す。昼休みだった。誰も呼びに行かなければ、千里は大抵、隣の教室で1人でお昼を食べている。声をかけに行くんだった。コウモリをやらなくてもいい日なんだから。

 私は慌てて席を立つ。

「長谷部、それ、帰るまでに返してくれたらいいから」

「わかった、ありがとう。今度ミスドでもおごるよ」

「何それ、安っ!」

どうでもいい適当なやりとりだけを残して、私は鞄を開け、お弁当箱を出して隣のクラスに向かった。

 

 「長谷部君ねえ、ホント、偉いんだか、偉くないんだかねー」

それからすこし後、私と千里は屋上の隅っこでお弁当箱を開けながら、長谷部の話題で盛り上がっていた。ちなみに、そう言って笑った千里は、長谷部とは1年生の時にクラスが同じで、爆弾発言で騒然となった教室に、ずばりいたわけだ。

「でも、ホントに頑張ってるとは思うよ、長谷部君。学校終って、バイトしてバンドの練習してたら、勉強してる時間なんてないと思うもん。それでも赤点取ったことないんでしょ。休み時間とかに、一生懸命予習復習してるんだよね」

まったく、それだけこまめに勉強ができるなら、まっとうに大学受験をしていたら、けっこういい大学に入れるんだろうなぁ…と思って、私は何も言わなかった。それを言ってしまったら、部活もバイトも今はしていなくて、勉強する時間には不自由しないはずの私は、一体何なんだ。

 長谷部みたいな奴を見ていると、ああ、世の中って、ああやって頑張って渡っていくものなんだ…という、漠然とした不安が湧いてくる。それは千里も同じだけど、誰にも言われずに選んで、何のレールもないところを行くぶんだけ多分、長谷部の方が強い。ただ、迷いの無さは、2人ともいい勝負に見える。

「だけど、長谷部君にノート頼まれるなんて、詩織も頑張ってるね」

そうしたら千里が、あまりにも意外なことを言ったので、私は一瞬、口の中にあったタコウィンナーを飲み込むのを忘れそうになった。

「時間の無い人は、ムダなことしてる暇も無いんだから。長谷部君、ああ見えてけっこう、ノート借りる相手は選んでるよ。見たら一発でちゃんとわかるやつ。そういうノートは、授業がわかってないと取れないしさ」

そうかなとか、おだてないでよとか、思わずそんな意味のないことを口走りながら、思わず止まりかける心臓が苦しい。時間、暇、長谷部は持ってなくて、千里にも多分あんまり無くて、私だけがたくさん、持っているもの――それが無かったら、私にも何か見えるんだろうか。

 長谷部の話は何となくそれで終わりになって、昼休みは一見無難に過ぎていった。相手が千里だと、先生の話もクラスの話も、空気を読んで無理に合わせたりしなくて済むから、とても楽だ。そして、合わせなくても何となく合うからこそ――徹底的に合わない1箇所が、くっきりと浮かび上がる。

 千里がはっきりと決めていて、私がこれっぽっちも考えられず、準備にさえ手をつけていないもの。進路。

 迷おうったって何に迷っていいかもわからなくて、とりあえずその暇な時間に勉強くらいしておけばいいのにその気力が何となく湧かなくて。そのくせ、進路なんてわかんないよー、というクラスの女の子たちの、嘘か本当かわからない会話に巻かれると不安で仕方なくなって。決めている千里の前に出ると、不安を通り越して、自分がすごく駄目なものに思えてしまって。ましてや長谷部の存在なんて、眩しすぎて、羨ましすぎて。

 例えば、千里がいなかったら、私はもうすこし、毎日楽に息ができるんだろうか、と、時々思う。そうすればとりあえず、こんなに自分が空っぽなのが悲しくなることは無い。だって、空っぽだって気がつくのは、誰かと比べて中味が無いから。千里や長谷部がいなければ、これは嘘じゃない、って分る言葉を喋る人は目の前にはいないから。そうすれば私は、誰とも自分を比べなくて済むから。

 

 そうやって漫然と毎日を過ごしていたら、中間の成績は景気良く落ちた。おかしいな、いつも通りに勉強してたんだけどな…?と首を傾げるまでもなく、私は担任に呼び止められた。

「成瀬、お前、大丈夫か?」

「やっぱり、そんなに落ちてました?順位」

「まあ、それもそうかもしれんがなぁ。お前は真面目だから大丈夫だろうと思ってたんだが、何ていうかこう…回りが徐々に受験モードになっていくのに、1人だけ淡々としてるだろう。結局、まだ方向性も決めてないよな?」

要するに彼は私に、いい加減、暫定でもいいから目標を決めて、本腰を入れて勉強しろと言っているわけだ。これまで毎日何となく続けてきたレベルじゃなくて。

 といってもそれは、別に職員室に呼び出されたわけじゃなくて、放課後の人気がない廊下でたまたますれ違った時の会話だったので、私はとにかく、色々考えてはいるんです、と曖昧に濁して、その場から逃げた。

 確かに、色々考えては、いる。というか迷っている。どっちに行けばいいのか、じゃなくて、それ以前のレベルのことを。

 それにしても――ほぅら、やっぱり「勉強してない」なんて嘘だったよね、と口の中で呟いたら、嫌な笑いがこみ上げてきた。だからみんな、本当のことを言ってないんだ。だからきっと、進路なんか決めてない、とか、何だって別にいいとか、それもきっと嘘なんだよね。

 本当は、誰かに訊いてみたい気が、ずっとしている。本当はどこへ行きたいのか。そこへ行くと決めた理由は何なのか。例えば、とりあえず英語が得意だから英文科、だっていい。そこに疑いさえ抱かなければ。それを疑ってしまう時点で私が駄目なのか、それとも考えすぎなのか。人は私よりも考えているのか、いないのか。

 誰かに訊いてみたい。その答えが嘘でさえなかったら。

つぎへ

inserted by FC2 system