その痩せた喉元には、小さな光が灯されていた。何の装飾も無いけれど、最小限の煌びやかさを纏った、銀の鎖の先端――認識票に似たプレートに刻み込まれた、翼のエンブレム。舞い上がる刹那にも、舞い降りる一瞬にも見える、その優雅な曲線は、何よりも雄弁に、持ち主の心を象っていた。

 

 忍が、留学先のアメリカから、久しぶりに帰国した光と顔を合わせたのは、暮れが押し迫って来る頃、地元の三鷹で、だった。場所は、お互いが高校時代から馴染にしているケーキ屋のイートインスペースで、忍がフォンダンショコラとアールグレイクラシックを、光がタルト・シブーストとオーガニックローズティーをオーダーしていた。

 「何?」

と、光がフォークを止めて、顔を上げる。すると忍は、ばつが悪そうに微笑んで、光が着ている黒いハイネックのセーターの、鎖骨の辺りを指さす。

「…彼氏、出来たんじゃなかったの?」

すると光は、ああ、と頷いて、嫣然と微笑み返した。

「それと、これとは、また別の話になるのよね」

そう言いながら白い細い指先を伸ばす、その先には、磨かれたピュアシルバーのネックレスがある。持ち主に似つかわしい繊細なチェーンはすこしキラキラした細工で、その先端には、翼の形のチャームがついている。舞い上がるようにも、舞い降りるようにも見えるそれは、かつて光が10代だった頃、恋人だった俊二とペアで誂えたものだった。ただ、男性と女性では似合う形も違うからという理由で、所謂「お揃い」ではないのだけれど。

 そのネックレスは、俊二が若くしてこの世を去り、光が独りになってからも、ずっと長い間、その喉元を飾り続けた。あれから、かれこれ8年近くになるのだが、相変わらずその輝きは、よく磨きこまれて、大切にされている。

 忍が、晴れてSIVAのギタリストとしてメジャーデビューし、そこそこの成功を収めているのに対して、光は大学を卒業後、奨学金を得て渡米し、カウンセリングの勉強を続けている。この数年は日米を行ったり来たり、大学に居たり現場の病院に居たりと腰が落ち着かないのだが、忍とは、まめなメールのやり取りが続いていた。

 その中に、最近新しい恋人が出来た、という文言があったのは、夏頃のことだったか。俊二を亡くした後の光は、別に操を立てているわけじゃないから、いい人が居れば付き合ってもいいんだけど、そこまでいい人が居ないなぁなどと言いながら、長らくフリーだった。なので、それはやはり相当な相手なのだろう、ぜひ話を聞いてみたいものだと、忍は手ぐすねを引いて、光の帰国を待っていたのだ。

 そして――変わることなくそこにあるものに、目を留めたわけだ。

「いやさ、着けててくれてうれしいんだけどね。その、なんていうか…ちょっとびっくりするかな、やっぱり」

言葉を選んで、選びきれなくて歯切れの悪い忍に、光は静かにかぶりを振った。

「だって、関係ないでしょう、今好きな人が居ることと、俊二が居たことは。今となってはもう、これは、体の一部みたいで、着けてないと変な感じがするし」

確かにそうだ、と忍は思う。ちらと聞いた、光の現在の恋人とやらと、光の過去に確かに存在した、俊二という人間は、生と死を隔て、幾ばくかの時を経て、無理なく共存出来る。あるいは、俊二の記憶は既に光の血肉と化していて、切り離すことなど不可能なのだから、何らかの形で彼女と向き合う者は、必然的に俊二とも向き合う。それが嫌なら、彼女とは関わり合うことが出来ない。

 過去は過去であり、思い出は思い出であって、現在はそれを引き継ぎ、また別の形で進行している――それ自体は、ごくごく当たり前のことだ、と忍は思う。けれども、世人の多くは、何だかよくわからないものに気兼ねして、過去と現在のどちらかを押し隠そうとする。

 それをしようとしない光の強さを、忍は思った。

 そして、その強さに媚びない軽やかさで、こう切り出した。

「俊兄のことをさ、アルバムにしようと思ってて」

「へえ?」

聞き返す光の調子は、忍が娘の和葉の話をする時と変わらない、親しみと静けさと好奇心で出来ている。

「誰が最初に言いだしたわけじゃないんだけど、昔っから…って、そんなに大昔も無いけどさ、まだうちは…まあ、ともかくね。いつか近い将来、自分たちの実力にあるレベルの自信が持てたら、絶対にトリビュートをやろうねって、決めてて。今度がそうかなって思ってるの」

業界人ではなく、ロックだのポップスだのというジャンルに疎い光には、みなまで言うわけではないが、今度というのは、現在制作中の、SIVA5枚目のアルバムのことだ。インディーズで2枚出しているから、メジャーとしては3枚目になる。

「シリアスに話しあって、よしここだ、って決めたわけじゃなくってね。孝が、『LUCIFER』のリメイクをしてるんだよ。それが良かったから、そういう流れになった感じかな。けっこう、大きなテーマなのに、ゆるい感じで何だけど」

照れたように淡く微笑む忍に、光は穏やかな溜息を返す。

「この台詞を私が言うのも何だけど、あなたたち本当に、あの人のこと好きよね」

「んー、このせりふを光ちゃんに言うのもアレだけど、それに関しては何気に、自信ありますねぇ。SIVAはべつにRACHESISの後継バンドっていうわけじゃないし、音楽的に言うと、つながってるとこも、そうじゃないとこもあるんだけど。でも、すくなくとも私は、俊兄がいなかったら音楽はやってないし、それは智之と悠太もそうだと思う。孝と総一郎は、俊兄とは直接はつながってないけど、でもやっぱり、こうやって5人集まった底のところには、俊兄っていうミュージシャンへの尊敬があると思うんだよね。それだけじゃないけど、それもまちがいなく、大事なポイントだから」

その溜息に対して忍が返したものは、花やかで誇らしげな笑顔だった。彼女という人間の美しいところを、惜しみなく差し出すような。

 その笑みを受けた光は、薔薇の花びらが浮くカップを乾して、同じように誇らしげな笑みを返す。

「それはそれは、凄いものになるんでしょうね」

「きっとね」

明日は晴れるでしょう、という調子と、何も変わらないテンションのやり取りだった。

 けれども2人とも、もう知っている。出来上がるアルバムが、SIVAの最高傑作になることを。いずれそれを超える日が来るとしても、バンドのキャリアの重要な一里塚として、長く語り継がれるような作品になることを。

 と、言うよりも、そうでなければ意味が無い、ということを。

 

 「…お前ら、まだいけるな」

ブースに入っている智之が、平然とそう言った。一方、楽器を手にする忍と孝史は、一瞬ぎょっとして、智之を睨みつける。何しろ彼らが今弾いたもの――ニューアルバムの楽曲に組み込まれた、SIVA史上最速のギターソロ――が、駄目を出されたわけだから。

 しかし智之は、動じる気配も無く、淡々と手にした譜面にボールペンでバツをうった。

「悪い、ここ、書き直してくるから、一晩待ってくれ。次行くぞ」

どうやら、文句を言う余地は残されていないようだった。

「ああ、分かった、好きにしろ」

とはいえ、一見投げ遣りに返す孝史に、本気で抗議するつもりなど毛頭無い。特にそれが智之のすることなら、すべて受けて立つまでだ。智之もそれを知っていて、口の端だけで笑って見せる。

「任せとけ。翔ぶ時は、高く、高く、だ」

特にそれが、限りない高みを目指そうとしていた、あの男に捧げる楽曲ならば。言葉にはならないその思いを、一音一音に込めて、彼が望んだ高さにまで届くように――誰も口にはしなくても、それが今回の制作にあたっての、SIVAの思いだった。

 「ねえ、智之、この曲さ」

黙って聞いていた忍が、顔を上げる。

「タイトル決まった」

曲も詞も、智之が書いてきていた。ただ、タイトルが決まらないのはよくあることで、そういう場合は、作品No. 幾つとか、オーパス何とか、そういう、無味乾燥な仮題だけが添えられてくる。そうして、制作の流れの中で、誰かがインスピレーションを受ける時を待つ。今回もそうだ。

「『翼』。シンプルで最高でしょう」

その言葉とともに、風が吹き抜ける。上昇気流だ。

「なるほど、上出来だな」

その風を頬に受けながら、にっ、と笑って、智之は頷いた。

 

 翌日、出来上がってきたギターソロは、紛れもなく、翼の姿をしていた。あの日、今はもう喪われた魂を、生き生きと象っていた、銀のエンブレムにも似て。高らかに舞い上がり、自由を謳って、やがて静かに舞い降りる。

 その曲のタイトルは「翼」。SIVAのライヴで終盤を彩る、不動の代表曲になる。

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