ハッピーマンデーのバンド――それは、インディーズ時代のSIVAについていた、笑えない通称だった。というのは、メンバーのうち2人が正社員で働いていて、共通している定休日が唯一、月曜日だったからだ。おまけにどちらも客商売で、見事に土日を潰してくれた。だから自然と、月曜祝日はライヴの日になる。その日――2003年1月13日、成人の日も、お約束どおり、私たちはライヴをやっていた。

 思えばあのころは、ようやくコンスタントにワンマンができるようになったばかりで、ワンマンですよ、と言われると、つい嬉しくなってしまう習性が、まだみんなに残っていた。

 私たちのホームグラウンドである三鷹の森壱番館は、無理したらやっと100人入るくらいの小さなライヴハウスで、しかも思いっきり地元だったから、やればそれなりに動員はあったんだけど、その日はなぜか、本当に入りがよくて、ほとんどソールド・アウトに近い状況だったと思う。

 夕方から始めて、全部で10曲、1時間そこそこのライヴだった。ちょうどそのころ、私たちは、そろそろアルバムを出そうかという話をしていて、中味をどうしよう、こうしようとも話し合っていたんだけど、思えばあの日のセットリストは、そのままSIVAの1stアルバム「CRESCENT」の曲順になったのだった。

 ライヴが終って、片づけをして、打ち上げをして――解散は多分、夜の11時頃。多分というのは、私は酔っぱらっていたので、このへんを覚えていない。そのころはもう、ずいぶん飲み慣れはいたから、そんなに酔っ払うことはめったになくなっていたんだけど、その日に限って、私はハイだった。

後から聞いたところによると、彼と姉の間で、こんなやり取りがあったらしい。

「孝ちゃん、それ、責任持って持ち帰ってね」

それというのは私のことで、私は酔っぱらった時の癖で、最も手近にいた人物――つまり彼に、抱きついて離れなかったらしい。身内とは思えないその台詞に、当然彼は目をむいた。

「夜中に妹を男の部屋に放置するのが、仮にも姉のすることなんですか?!」

「離れないんでしょ。それを無理矢理引き剥がして、なおかつ引きずって家まで帰るだけの体力無いから。大体あんたたちに、今更遠慮するほどの何があるっていうのよ」

下世話な言い方をすれば、やるだけのことはやってしまっている間柄だから、確かにそういう言い方も出来た。

 大学を卒業した後、彼は、四谷にある就職先に通いやすい、という理由もあって、三鷹の駅近くにアパートを借りたのだった。それをいいことに、私は休みのたびにその部屋に入りびたっていた。そんな具合なので、当然、私の両親は彼の存在を知っていたし、いつの間にか「真面目に付き合ってるなら家に連れてきなさい」とかいう展開にもなって、一応、両親公認の彼氏だったりもした。

「というわけだから、よろしくお願いします。因みにその子、明日は普通に仕事だけど、化粧品一式は持ってるみたいだから、孝ちゃんとこからでも大丈夫でしょう。おやすみ!」

そして姉はと言えば、私とは別の意味で見事に酔っぱらっていて、無駄に豪快な台詞だけを吐いたら、勝手に家に帰ってしまったらしい。いや――あの人なら、しらふでも同じことをしただろうな。

 

 その後彼は、あえなくその辺りにいる人間全員に見放されて、仕方なく私をお持ち帰りしたらしい。ライヴハウスも打ち上げ会場も彼のアパートも、すべて半径500メートル以内に、コンパクトに収まっていたがゆえの悲喜劇だ。

 そして私の記憶は、すっかり住み慣れた感さえ出ていた彼の部屋で、水を飲んでいるところから再開される。

「立てるか?」

彼は、すごく心配そうに、こっちを見ていた。心配するまでもなく、私の酔いは急激に回って急激に醒めるので、もうそのころには、かなりしらふに近いところまで戻っていた。

「歩けるようになったら、家まで送る」

こういうことを言われる度に、この人って紳士だなぁ(エセだけど)と思えて、それはそれでとても嬉しいんだけど、同時にこの甲斐性なしのチキン!と思えるのは、錯覚ではない。

 だって、すくなくとも私は、23歳で心身ともに文句無く健康な男の子の恋愛において、プラトニックなんて信じない。というか、やること全部やってるから、言える。とりあえず私たちの関係においては、欲情は愛情の一部だ。

 それなのに彼はいつも、欲なんてこれっぽっちもありません、というフリをする。すごく無理をした、徹底した感情の押さえつけの根っこにあるのは「そうすべきだ」という理性、さもなければ格好つけ、そして「そうすることが私のためだ」という、まあ思いやりもあるんだけど、これも格好つけ。どれがどんな比率で混ざり合っているかは、さすがにわからない。

 とにもかくにも、もしも彼のそのポーズを貫き通そうとするなら、お互いの欲求は、絶対に通い合わない。私のだけじゃなくて、彼のものも。

 難儀な奴、とも思うけど、その難儀さがまた愛おしい、と言えてしまうのは、好きだから以外の何ものでもない。

 なので私は、即答で切りかえした。

「いや」

彼はすごく困った顔をしていた。

「それよりも、おふろ貸して。それで完全に酔いは醒めると思う」

「構わないけど、風邪ひくぞ」

「何で」

「その後夜道を歩くからだ」

彼の言うことは、いつも裏腹だった。本当は私を箱にでも入れて持ち歩きたいと思っているくせに、部屋に足を踏み入れた瞬間から、さっさと家に帰したがる。多分そうやって、強すぎる独占欲を中和しているんだろうと思うけど、することなすことすべてがそうであるように、手と息の抜きどころを、まったく心得ていないのだから。

 意図せずしてしみじみと、私は呟いた。

「孝ってさぁ、本当に嘘つきだよね。肝心なところになると、いつも反対のことをする。いつでも思った通りに行動するのが正しいわけじゃないけど、それじゃ私たち、何もできないじゃない」

アルコールの勢いが残っていなかったといえば嘘なんだけど、私がしつこかった理由はもうひとつあって、要するに私はその前、小1ヶ月くらい、ほったらかされていたのだ。年末年始と、彼はとても忙しかった。学生の冬休みと同時に始まる冬期講習、その後に続く正月特訓で、クリスマスも大晦日もお正月も無いのは毎年のことだった。加えて今年はライヴのリハーサルもあったから、冗談抜きで忙しくて、バンドのメンバーとしてはほぼ毎日顔を合わせていたのに、恋人同士の会話とかは、限りなくゼロに近かった。

そんなこんなで私がいじけているのは、どうやら彼にもわかったらしい。言葉を選んでいるのが見て取れた。でも、それ以上押すのは嫌だったので、私は黙って、次の言葉を待った。

 多分、1分くらい2人して黙った後だったと思う。声よりも先に手が伸びてきて、彼は私の背中を押した。

「酔いを醒まして来い」

押された方向には、バスルームの扉がある。まだるっこしい人だ。

「風邪ひくのに?」

思いっきり意地悪な顔をしてそう言ったら、彼は目の下あたりを赤くして、ひかせないから、と言った。姉じゃないけど、今さら照れるまでもないだけのことを、私たちはやっていたわけで…それも1回や2回って話じゃなくて。それなのにそんなリアクションになるのは、決して彼がむだに初心だったわけでも、無意味に純情だったわけでもない。単に、本音をさらすのが下手なだけだ。

「それじゃ、お言葉に甘えます」

立ち上がりぎわに極上の笑顔が浮かんだのは、どうにか本音を吐かせるのに成功した、他愛ない満足感があったからだ。

 ちなみに、こんな風に突発的に彼の部屋に泊まったことが前にもあったのだけど、その時は本当に行き当たりばったりで、何もなくて翌朝わたわたと家に着がえに帰ったから、その後になって「今後こういう時のために」と称して、下着とパジャマを一組、袋に入れて置いていった。もちろん彼はものすごく抵抗したんだけど、置いてしまえばこっちのもので、つき返したり撤去したりする根性はないのだった。

 熱いお湯でライヴの汗と残りの酔いを洗い流したら、自分でもおかしいくらい、気分的にもすっきりしてしまった。そしてすっきりしたら、クリアになった頭の中に、これだけは言わなきゃ、ということが全部、きれいに並んだ。まっすぐに見つめる鏡の中では、すっぴんの私が、乾きたての髪にふちどられた、くったくのない笑みを浮かべている。

「よし、」と呟いて、ドアを開けた。

 外に出て、冷えるといけないから、そのふとん被ってるね、と言ったら、彼はすごく微妙な表情をした。困ったような、笑ってしまいたいような、とってもはんぱな感じの。といってもこの部屋は、異常な冊数の本をのぞいては、むだなものが全然なくて、使えそうなものはそれだけだった。冬の夜中だから、いくら暖房がきいていても、パジャマだけだと本当に寒いし。

 入れ違いに彼がバスルームに入ると、私は、ふとんを引きずってドアの前まで言って、静かに気配をうかがっていた。もともと彼は、おふろに入ってあったまろうとか、リラックスしようとかいう考えはあまりなくて、汚れを落とせればそれでいいと思っているので、時間はそんなにかからない。シャワーの音がして、ややあってドライヤーの音がして…静かな足音が、ドアに近づいた。

 ドアが開く、その瞬間を狙いすまして、おもいっきり、手に持ったふとんで彼をはたいてやった。と言ってもそれは羽ぶとんで、どれだけ殴打されても痛くもないし、第一ふとんなんて大きいから、上手く振り上げることさえできなくて、けっこうまぬけな絵にはなってまったんだけど。とりあえず、意表を突くことにだけは、成功した。

 何が起こったかよくわからずに、目だけ白黒させている彼をとっつかまえて、頬に両手を添える。

「嘘をつくのは貴方の本性みたいなものだから、それは仕方ない。だけど、10回に1回くらいは、本当のことを言って。その1回を、楽しみに待ってるから。じゃないと、このくらいは怒るよ」

嘘はつかないで、と言ったところで、どうせこの人は、ちっとも素直じゃないんだから。でもそれは、諦めじゃない。それまで「込み」で、好きになっちゃったんだから、という、自分に対する呆れも、ちょっとだけ入っていた。

 至近距離からのぞきこんだ、彼の瞳――最初はやっぱり白黒していたその色は、次第に落ち着いて、逆に私が怖くなるくらい、真剣の二文字に染まった。

「…悲しくは、ないか?」

一瞬、その深い深い色に、吸い込まれそうになる。かろうじて踏みとどまったら、今度はその深さが、すごく愛おしく思えた。

「ううん。あなたがつく嘘は、全部じゃないと思うけど、大体は『嘘』だってわかるから。だから、むっとして、こうやって憂さを晴らすの。それで、おしまい」

張り詰めていた深い色が、ゆっくりと溶けて、今度は凪の色になった。熱と熱の間の、穏やかさだ。

「なら、良かった…」

そして、大きな吐息が零れる。人目があるところでは、スカした顔で落ち着き払っているこの人が、こんなに柔らかい表情をするんだよ、というのは、私の秘密であり、宝物だ。

「発散して済む怒りなら、ぶちまければどうにかなる。悲しみが混じってると、傷になって残ったりするから――」

彼にしては珍しく、とても抽象的なものの言い方で、珍しいなと思ったんだけど――もしかしたらそれは、彼が私より前に好きだった人に対して、思ったことだったかもしれない。それは私の知ったことではないから、それ以上突っ込んだりはしなかったけど、言っている内容よりも、その響きのセンチメンタルさが、意外だった。

 弱そうなところをさらしてくれるから、じゃなくて、私だけが見られる表情だから、じゃなくて――彼と向き合っていると、ただ好きだっていう、それだけの気持ちで、心臓がひっくり返りそうになることがある。身体中に流れている血が満ち潮のように溢れて、熱くなる。大事な話をしている時だけじゃなくて、本当に何気なく、横顔を見ただけの時もある。なんでそれが来るのかはよくわからないけど、ひとつだけ確実なのは、そんな瞬間の前後はいつも、私には、ばちあたりに思えるくらい、幸せな時間が流れていた。

 その時も「それ」が来て、身体の芯が浮き上がりそうになった。どこか、つかまるところはと思って、とっさに掴んだのは、かなりどうしようもない話だった。

「そうだねぇ、この2年ちょっとの間に、あなたに、心理的に痛い目を見せられたことはないかな」

「…物理的にはあったのか?」

「あったよー、特大のがひとつ」

まったくない、と言いたいところだったんだけど、残念ながらそれは、言ったら嘘だから。

 眉を寄せて、必死になって考え込んでいるらしい彼の、その皺の寄った眉間を、こつんと叩いてやる。

3月のおわりの、雨の日」

あ、とまのぬけた声をたてて、彼は目をみひらき、すこし置いて、甘い苦笑を浮かべた。それで、彼は思い出したようだった。それが「はじめて」だったよね、と。

 俗に言う「初体験」というやつ。お互いにとっての。ものの本には色々書いてあるけど、確かにすごく痛かった。

「…あれは、合意の上でだろう」

「そうだよー。じゃなかったら、あなたが加害者で、私が被害者」

彼の口調がすこし、つっけんどんになるのは、照れているからだ。2人だけの時に、今更この話題で照れるなんて、お上品な人だなぁ、と思う。そういう人で良かったけど。

 甘い苦笑はゆっくりと溶けて、もう一度、息が詰まるような、濃密な真剣さに変わる。

「とにかく…こんなことを言えた義理じゃ無いかもしれないが、ちゃんと怒ってくれ。じゃないと歯止めがかからないから、俺は」

「歯止めをかけてほしいのは、何でかな」

即座に私はそう返し、自分でもあんまりな誘導尋問だと思ったんだけど、こういう時じゃなかったら、絶対に答えてくれない。真っすぐにのぞき込んだ黒い瞳は、一瞬たじろいだように揺らめいて、もう一度、静かな光を宿す。

「大事な相手だから…――…愛してるからだ」

その一言を、一体どれだけ聞いてきただろう。大した回数じゃない。何しろシャイな上に、ヘンな格好をつけたがる、悪い癖もある人だから。ちゃんと目を見て、となると、本当に希少価値だ。肝心なことを言う時になると、急に臆病になって、耳元でささやいたりするんだから。

 もちろん、そういう時のくすぐったさも、私はとても好きなんだけど、その言葉の甘さと心地良さは格別だった。身体と心、両方の奥の奥から湧き出たものが、自然と笑みになり、私を染めていく。

「合格。これで、嘘はぜんぶ、帳消しにしてあげる。それから、今の一言は、一生、宝物にするね」

 きちんと最後まで言い終えるよりも、多分早かった。10何センチかをキープしていた2人の距離が、急にゼロになる。太い腕の中に、私はいた。

「だったら一生離れるな」

そして、今度こそ耳元で、照れ隠しにもならないくらいぶっきらぼうに、彼は言った。

 

 事実は後づけでもいいならば、それは結局、2人の人生を大転換させる、大事な約束になったわけだ。

 

 分厚い掌が素肌に触れた瞬間、私はいつも、大きな大きなため息をつく。それだけで、こり固まっていたものがほぐれて、すべてほどけていくような――そのかわりに、穏やかに澄み渡るような、不思議な感触にひたる。

 身体の相性、なんてことを、世間では言うようだけど、私にとっては、彼に触れているのが好きで、彼に触れてもらうのが同じくらい好き、で十分だ。ただそれだけで、私は安心する。温かさの中で深呼吸ができる。

 それはまあ初めての相手だから、慣れないうちは、何をしていいかわからなくて逆上したり、独りよがりになってしまったり、見栄をはったり全然平気じゃないのに平気なフリをしてみたり、色んな失敗があった。昼間、明るいところで向かい合っているのと同じように。そして、ようやく肩の力がぬけたのは、いつだっただろう。ともかくそれからは、彼の近くにいる時が、一番無心になれる時になった。

 さらさらと音もなく流れる時間の中には、こまやかな光がたくさん輝いている。薄く閉じたまぶたの裏に、小さな瞬きがいくつも見えた。もしかしたら、一瞬、寝ていたのかもしれない。いずれにしてももう、意識は完全に蕩けていて、このまま拡散したら、たやすく夜に融けてしまうだろう。

 それでも薄っすらと目をひらいたら、闇を透かして、彼と目があった。

「かわいい。無防備な顔してると」

かすれた声で、私がそう言ったら、彼はすこしだけばつの悪そうな顔をして、言った。

「もう寝ろ。明日、起きられなくなるぞ」

 そう言われれば確かに、壁の時計は、明日仕事だと思うと気が遠くなるくらいの位置を指していて、さすがに冗談では済まない感じがした。

「あと5時間くらい、夜が明けないといいのにな」

子供のようなことを呟いた唇を、乾いた唇が柔らかくふさいだ。おやすみのキスにしては、それはちょっと深かったんだけど、いずれにしても、私の意識はそこで途切れる。

 長い長い1日は、そうやって終った。

 

 問題はその翌日、ふらふらと職場に行ってからではなくて、ざっと1週間後に、錠剤の残りを数えている時に起こった。

 錠剤というのは、いわゆる低容量ピルというもののことで、用途は言わずもがなだ。そしてこの薬は、飲み始めたら1年365日、ほぼ同じ時間に飲み続けなければならず、2日続けて飲み忘れると、次の生理日まで失効してしまうという、なかなか面倒な性質があるのだけど――どう考えても、3日分余っていた。

 嘘だ、そんなはずはない、一体いつ…と考えて思い当たったのは、お正月の休み明けに、インフルエンザにかかって寝込んでいた3日間だった。私は周囲の人間から呆れられるくらい健康で、風邪をひくことも、そうめったにない。その反動で、何年かに1回、熱を出すと弱くて、起き上がれなくなってしまう。そのお休み明けにも、何年ぶりだかで寝こんでしまって、まる3日というもの、朦朧とした意識ですごした。絶対にそこだ。そのくせ解熱剤やら何やら、薬だけは何種類も飲んでいたから、意識がぐっちゃぐちゃになって、飲み忘れた自覚さえなかったんだ。

 さーっと顔から血の気がひいていくのが、自分でもよくわかった。って、どーするの、やっちゃったじゃない。そんな下世話な一言が、のどもとでつかえて止まった。

 とりあえずその時は、大丈夫、そんなに高い確率でそんなことが起こるはずはないし、と自分に言い聞かせて、強制終了した気がする。なんだけど、世の中は安いドラマのようにできていたらしくて、月末、今度こそ本当に、私は蒼ざめることになる。これまで何年も、ほぼ乱れなく28日周期できていたいつものあれが、こない。1週間待っても状況が変わらなかったので、市販の検査薬経由、産婦人科に駆け込むことになった。

 そこで私は、あの夜、彼から何をもらったのかを知った。

 選択肢は、最初からひとつしかなかった。

 そこからは怒涛のようにすべてが進んでいった気がする。どうにか双方の両親を説き伏せて(というか、主に彼の、相模原のお父さんのご機嫌回復を図って)、婚姻届を出したのが2月のおわり。新しい部屋に引っ越して、新しい家族として暮らし始めたのは3月に入ってからだ。

 予定日は10月の前半、と言われたので、とりあえず8月一杯までは仕事も続けることにして、同時進行で妻・母(半分くらいだけど)・SIVAのギタリストも続けるという――楽しかったけど、想像以上にハードな毎日が待っていた。幸いにも妊娠の経過は順調で、悪阻もそう重くはなかったけど、どうにか退職にこぎつけた日には、ぐったり疲れて立ち上がれなかったものだ。とにかくがんばったと思う――

 

 「…さん。宮島さん!」

ああ、いけない、気をしっかり持たなきゃ、と、半分以上飛びかけていた意識を引きずり戻す。回想というものは、1度溢れると、収拾がつかなくなるんだ、走馬灯っていうのはこれの一生ぶんなんだ、なんて、妙なことを考えていたら、痛みから解放されているのに気がついた。

「おめでとうございます、宮島さん、元気な女のお子さんですよ」

回想の量がすごかったのは、単に、現実逃避をしたい意欲が旺盛だったから、かもしれない。何しろ痛いの痛くないのの騒ぎじゃなかったから。

 だけど、今、問題なのは、そのことじゃなくって、私の胸の上にのせられた、びっくりするくらい小さな赤ちゃんのことだ。女の子、というのは、とっくの昔に検診でも言われていたんだけど、あくまでシルエットを見て判断しているだけだから、生まれてみたらどんでん返しで男の子、ということが、一応たまにあるらしい(逆があったら、それはとんでもないヤブ医者だっていうことだ)。名前は女の子で考えていたし、方々にもどうやら女の子です、と言って回ってしまったので、とりあえず予定通りでよかった。

 それから私は、ようやく落ち着いて、赤ちゃんの顔を見て――思わず、吹いてしまった。そういうリアクションをする産婦さんはめずらしいのか、助産師のおばさんが、けげんそうにこっちの様子をうかがっている。

「彼に似てる…」

残念ながら、大笑いしたくても、今はその余力がない。だけど、できることなら、私は思いっきり笑っただろう。だって本当に、つい今さっき、あんなに苦労して生んだ私じゃなくて、彼の娘、っていう顔をしているんだから。

「今何時ですか?」

彼のことを思い出したところで、とっさに気づいたことはそれだった。

6時半ちょっと過ぎですね」

それでは、彼は思いっきり授業中だ。途中で生徒をほったらかしてくるわけにもいかないだろう。授業がおわって10時、片付けも入れるともう1時間。病院はとっくに消灯時間をすぎている。残念ながら、ご対面はまた明日だ。

 「和葉ちゃん」

決めてあった名前で、赤ちゃんを呼んでみたけど、もちろんリアクションはない。というか、されても何がリアクションなのか、多分わからないんだけど――いい名前だ。根拠はないけど、この子によく似合う。

 そう思ったら、そこでやっと安堵感が湧いてきて――彼に逢いたい、と思った。

つぎへ

inserted by FC2 system