あたしには妹が居る。名前は、忍。無鉄砲でお転婆で実に手のかかるこの妹は、私の人生の、かけがえのない相棒である。

 

 妹が生まれた時のことは、残念ながら覚えていない。2歳前だから当然だろう。とりあえず、気が付いたらあの子はそこに居て、母親の膝でピアノをいじっていた。何と無く母親の真似がしたいだけで弾き始めて、特段の理由も無く一度始めたことを辞めてはいけない、という親の方針で嫌々続けていた私とは違い、あの子は本当に、音を出すのが好きだった。そして、発表会なるものに出るようになる頃には、既に余裕で私より上手かった。

 2歳違いの姉妹ということで、とかく比較されがちな私たちではあったが、外見上はまあ、似ていたんだろうと思う。ただ、幼い頃から一貫して、顔立ちはあの子の方が良かった。顔の形は基本的に同じだったんだけど、パーツパーツの微妙な完成度が違っていたと思う。子供っぽくて可愛い顔というよりは、行く先楽しみな美人顔。くっきりした目元や、細い筆で丁寧に引いたような唇の線や、全体の繊細な造形は、子供ながらに、どう見たって太刀打ち出来るものではなくて、ベースの格好が同じなだけに、思春期辺りまでは、憤懣遣る方無い存在であったと言える。

 勉強だけは、いつでもあたしの方がよく出来た。運動神経はどっこい。だけど、目立つところ得するところではいつも、あの子はあたしを出し抜いた。ピアノが得意で、手先が器用。家の中のことが好きで、母親にくっついて料理や裁縫をソツなく覚えた。親戚からは、家の手伝いをよくする感心な子だと言われていたけど、あれは楽しくてやっていただけだ。だけどあの子は、甘え上手で、人の懐にすっと入り込み、何の嫌味も無く可愛がられる。下の子特有のしたたかさと言えばそれまでかもしれないが、その点いたって不器用なあたしには、やっぱり腹立たしい存在だった。

 一歩間違うまでもなく相容れない姉妹を繋いでいたのは、共通の趣味である音楽だった。

 忘れもしない、小学校5年生の終り頃だ。あたしは偶然、あるものを目にすることになる。場所は、駅前のレンタルCD屋。行った理由は既に定かではない。

 ただ、聞こえてきた音に、振り向いた。全身の感覚を逆撫でるような、不穏な感じ。背筋がゾクゾクした。必死になって探した音の出所は、店頭に置かれたテレビであり、その画面には、曰く言い難い格好をした人が映っていて、音はどうやら、彼らが出しているらしかった。

 嵐のように押し寄せるドラム、重低音で暴れ回るベース、華やかなツインギター、そして、すべてを突き抜けるハイトーンのヴォーカル――あたしは目を奪われた。黄色や赤の長い髪を突き立てて、白塗りの派手なメイクをした、子供のあたしには何人とも何者とも分らない5人組――でも、あたしは目を離せなくなった。

 お店の人に聞いたところ、それは今人気のXというロックバンドのビデオだ、と言われた。そこであたしは勧められたCDを借りて帰る。それが最初だった。

 あの子が近寄ってきたのは、それから数ヶ月して、Xが新しい音源を発表し、あたしが生まれて初めて小遣いを握り締めてCD屋に走った日のことだった。

 振り返ると、部屋のドアが半開きになっていて、妹がちょこんと顔を出していた。

「お姉ちゃん、それなあに?」

基本的にあの子がよくする表情と言えばそれまでかもしれないんだけど、その時もその時で、あの子はこれ以上無いってくらい、嬉しそうな顔をしていた。

 好きなものについて尋ねられて、絶対に悪い気はしないものだから、あたしはあの子を呼び寄せて、Xについての知る限りを(と言っても笑ってしまうくらい乏しい知識を)ひけらかした。あの子は目を輝かせてそれを聞いていた。

 その時あたしはふと思った。この子にこういう音楽を教えておくと、何かと便利かもしれない。というのは、一応その頃知識として、このバンドのコンサートに行く人の一部は、メンバーの衣装を真似ていく、という話を聞いていたからだ。私には未来永劫、逆立ちしてもそんな器用な真似は出来まい。が、この子になら可能だ。

 計算と言うまでもない打算はそれでお終い。というか、一番近くに同じものを愛好する仲間が居るのはとても楽しい。ここで初めて、私たち姉妹は、屈託無く手を繋ぐことに成功した。

 初めてのライヴは、私がXのファンクラブに入って最初の、92年初頭、東京ドームで、チケット代はお年玉の代わり、ということになっていた。行った方も行かせた方も、それがどんな危険地帯だか、分っちゃ居なかったのだけど。

 正直言って、あたしも圧倒された。初めて行った東京ドームの大きさに、ではなくて、そこに渦巻いていた異様な熱気と、そこに集ったお姉さんたちの異常な気合に。普段のお出かけと変わらない格好をしていたあたしたちは、明らかに、そこを通り抜けて後楽園遊園地に行くべきだった。

 その時、立ち竦みかけていたあたしを中まで連れて行ってくれたのは、ほかでもない、妹だ。

「お姉ちゃんお姉ちゃん、こっちに列ができてるよ。ならぼうよー」

多分、それが初めてだったと思う。あたしが妹の、正しい意味の聡明さを理解したのは。あの子が見ていたのは、お姉さんたちの派手な風体でなく、そこを既に支配しかかっている狂気でなく、人の流れであり、その流れが何のために出来ているか、そしてそこで自分が何をすればいいか、という最も肝心なところだった。

 決して過剰に冷静なわけではない。ただ自然体。惑わされない。見るべきものを間違えない。そのことを、聡明と言わずして何と言えばいいのか。

 まあ、その一言でちゃっかり平常心に戻って、一目散に列に入っていったあたしもあたしで、その後初参加のライヴで子供なりに大暴れした一件については、もう弁解の余地もフォローの必要さえも無いんだけど。

 それからあたしたちは、実に色んな音楽を、2人で聴いて歩いた。経済観念の緩い両親から、子供にしてはやや多い金額を与えられていたこともあって、年齢の割には贅沢をしたと思う。もちろんその余波で、特にあたしは、漫画本一冊、持っていやしなかったんだけど。

 でも、CDやライヴのチケット、音楽の雑誌には、糸目をつけていなかった。2人で事前によく相談して分担を決め、手に入れたものは平等に分け合って、楽しんだ。誰が格好良いとかどの新曲がいいとか、延々と語り合った。音楽を間に挟んで、2人はいつも一緒だった。

 というわけで、LUNA SEAの東京ドームを、一応全通したというのが、姉妹の自慢だったりする。真冬の野外にも居たし東京ビッグサイトや武道館、横浜アリーナにも行った。ZI:KILLの武道館や、Xメンバーのソロツアーで、代々木体育館にも行ったし。

 肝心のXはと言うと――その後無事にチケットが取れたのは、96年の東京ドーム、所謂「DHALIA TOUR FINAL」だけだ。そりゃそうだろう。何しろライヴの本数が少ない。というより、寧ろ無い。ファンクラブ会報に載せる情報が何も無くて、思いっきり音信不通になったりするバンドだったのだ。その年イチのライヴだもの、チケット争奪戦は熾烈を極める。落選上等って感じだ。

 もちろん、解散の節には、手を取り合って泣いたりもしたけどね。

 ただ、2人とも決してメンバー個人に入れ込むタイプではなかったし、音楽第一で依存心が強くも無かったので、カオス状態に陥ることは無かったけど。解散のショックも、浮いたファンクラブ会費でどこのライヴに行こうか考えて、紛らわしたくらいだし。

 妹のライヴ遍歴はそのくらいで止まるが、あたしは年齢と一緒に、どんどんレパートリーを拡大していった。BUCK-TICKZIGGYThe Yellow MonkeyCRAZEDER ZIBET。音源で良ければDEAD ENDDe’langerも。とにかく邦楽のロックで、演奏力のあるバンドが好きだった。目の前で何かが起こる、ゾクゾクするようなライヴ感と、彼らの進化をリアルタイムで目の当たりに出来るかけがえのない同時代性に、完全に酔っていた。 

 そこから彼らのルーツを辿り、交友関係や影響関係を虱潰しているうちに、あたしの頭の中には、著しく偏りつつも大変緻密な、よく出来た音楽地図が描かれていた。

 

 あたしたち姉妹が、音楽との別の向かい合い方を見つけたのは、あたしが中学校一年生で、妹が小学校五年生の時。先に、妹がギターを始めた。で、また娘が音楽をやりたがるとなると、諸手を挙げて歓迎してくれた両親は、知人のツテだとかで、子供には上等すぎる、ギブソンのアコースティックギターを貰ってきた。その後数年間で、同じくギブソンのエレキギターだとか、フェンダーのアンプだとか、これまた子供のおもちゃにしてはレベルの高すぎる代物が家にやってくるのだが、これらはその後10年以上も、妹の相棒になり、一緒に色んな時間を駆け抜けた。

 一方あたしの扉を開いたのは、教室で耳にした、とても嬉しい名前だった。

「だから、TAIJIさんがさ、」

結論から言うと、あたしたちが最初に行ったXの東京ドームライヴは、彼らのX名義としては最後の東京ドーム公演であり、ベースのTAIJIはその後バンドを脱退して、ジャパ・メタ界の大御所であるLOUDNESSに移籍していた。お蔭様で数ヶ月来、ご無沙汰していた懐かしい名前。

 その名前を口にしたのは、窓際で喋っていた2人組の男子だった。

TAIJIがどうしたの?!」

思いっきり会話をぶった切って乱入したあたしを、2人は呆れた顔で見返してきた。でも「うっせーな」とか言わずに混ぜてくれたのは、大方の中学一年生がそうであるように、あの子たちもまだまだお子様で、人が良かったからなんだろうな。

「昨日、LOUDNESSのライヴに行ってさ」

「そうなんだ!ねえねえ、LOUDNESSってどんな感じ?格好良い?TAIJI元気だった?」

それがあたしと、智之・俊二コンビとの友情が成立した瞬間だった。入学当初から比較的大柄だった智之は、その時既にかなり声が掠れていたんだけど、俊二はまだまだ細っこくて、身長も余裕であたしより低くて、声変わりなんて全然なガキんちょだった。まったく、笑える思い出だ。

 正直言ってクラスでは浮いていた(そして、そんなことを一向苦にする気配も無かった)私は、ここでやっと、同志を手に入れる。奴らとは本当にしょっちゅう、コアな音楽の話で盛り上がった。そして、その年の文化祭。奴らがバンドを組むというので、あたしが裏方をすることになった。何をしたかっていうと、まあ、あの子たちの代わりにポスターを描いたりとか、昼休みに上級生のクラスを回って宣伝するとか、そのくらいだ。機材関係の一切は奴らが自分でやっていて、あたしには触らせて貰えなかった。

 だけど、楽しいライヴだった。

 それから、奴らは少年バンドコンテストなんかに出るようになり、あたしは個人的に行くライヴの本数を増やしてゆき、ただの音楽好きの友達、という関係が続く。そこには途中から妹も混ざって、俊二の後を、尻尾を振ってついて歩いていた。

 「…上手いじゃないか」

最初に妹がギターを弾くのを聴いて、俊二が発した言葉がそれだった。音楽に関しては万事、辛口過剰なあの子が、殆ど唯一発した、他人に対する褒め言葉。それが、その一言だった。

「本当ですか?!」

その瞬間の、妹の嬉しそうな顔ったら無かった。何しろ家で1人で教則本を相手に練習していたので、誰かに評価をして貰ったことが、それまで無かったのだ。

 気が付けば妹は、俊二のことを「俊兄」と呼び、勝手に一番弟子を自認して、何か弾けるようになる度に、俊二に聞かせるようになった。そして、あの無口無愛想不器用の権化みたいな俊二が、意外と妹のことは、見捨てもしないで面倒を見てくれた。

 ある時あたしが、五月蝿くないのかと尋ねると、あの子はすこし困ったような顔をして、こう言った。

「確かに、面倒臭いことも、あるかな…だけど、忍は凄い速さで上手くなっていくからさ…俺何も教えてないのに、1人でどんどん伸びるからさ…負けてられないと思って」

それは全然回答になっていなかったし、例え俊二が具体的な指導は何もしていなかったにしても、妹のギターには俊二の影響がありありと伺えた。大好きな俊兄に聴いて貰うことが、何よりのモチベーションだったのは間違いない。

 あたしが文句なしの天才だと信じている2人のギタリストは、こうしてお互いに触発し合いながら、頂点への螺旋を、怖いくらいの勢いで、上昇していった。

 そしてあたしは、当時はまだそこまでのことには無自覚で、半ば以上親心になって、そんな2人を見守っていた。

 

 転機が訪れたのは三年生に進級した時で、高校受験もあるし、ひとまずこのバンドでの活動はこのくらいにしておこうか、という話が、当然のように出てきた。あたしは個人的に、何だよこの意気地なし、と思ったものだったけど、当事者じゃないから仕方ない。

 と、思っていたら、俊二と智之は別の方法を考えていた。以前にバンドコンテストで知り合った他校の生徒を誘って、いきなり新しいバンドを始めてしまったのだ。もしかしたら、あたしには言わなかっただけで、もう前々から話は進めていたのかもしれない。そのくらい、手回しは良かった。

 その時あたしは、これでもう、奴らは同級生同士のお遊びを抜けて、本格的にインディーズ・シーンの隅っこで活動を始めるんだ、と思った。そこは完全な少年たちの戦場であって、女のあたしはお呼びではないのだろうと――そう思っていただけに、顔合わせの時に呼び出しを喰らって、随分驚いた。

「こいつは、中原っていって、今までずっと裏方を任せてたダチ。で、これからもよろしくっちゅうことで、いいんだよな」

そう言ったのは、智之だった。息が止まるくらいびっくりしたけど、それ以上に、嬉しくて背筋がゾクゾクした。彼らが行こうとしている場所の向こうには、かつてXが、LUNA SEABUCK-TICKや、あたしが愛したバンドのすべてが通った道があり、その遥か向こう、もう殆ど霞んで見えないずっと遠くには、メジャーという輝かしいフィールドもあるのが分った。

 それは、あたしの憧れが息づいている場所だった。

 その場所で、あたしのやり方で、闘っていいと――一緒に闘って欲しいと、あの子たちは言ってくれた。それは、あたしに向けて開かれた最初の扉であり、今でも忘れない、最高の栄誉だ。

「薫」

俊二が振り返る。

「一緒にメジャーに行こうな」

浅く、浅く、浮かべられた笑みの輝かしさを、絶対に忘れない。

 

 あの日々、あたしは、恐ろしい密度で回り続ける毎日の中で、自分の「原型」を築いていった。普通の高校に通っていたので勉強もしたし、ライヴにも行った。でも、それと同時進行で、バンドの裏方仕事を、本格的に覚えなければならなくて、あちこちのバンドのスタッフに頭を下げては、バックステージに潜り込み、仕事の仕方を盗んできて、新しいバンド・RACHESISの活動に反映させていった。そうやって入った舞台裏で、目に付くものすべて盗もうと極限まで神経を研ぎ澄ます、あの異常な緊張感は、同時に狂おしいほどの快感でもあった。五感がキンキンに冴えて、感性が肥大し、普通では考えられないほどの情報が、自分の中に入ってくる。その中に溺れかけながら、入ってくるすべてを内側に焼き付けようとして、あたしは躍起になった。もしかしたら、クスリをやるとこんな風になるのかなぁ、とも、漠然と思った。

 とにかくそのくらい、個人的にはヤバい橋を渡りながら、スキルを身につけていった。

 客の捌き方、在庫管理のコツ、お金の扱い方や、バックステージの上手なフォロー方法。学んだことは数限り無かったけれど、あたしが一番興味を持ったのは、やはり宣伝広報だった。チラシを配るにしても、枚数は限られているし、どこでやれば一番効果的かを、いつも考えていた。どこかのライヴハウスの出入り口で、インディーズのバンドを聴いている人を捕まえる。ここの客層はこうで、こういう音楽も聴いているから、きっといけるだろうとか。このバンドと対バンを組めば、客層の何割かは取り込めるだろうとか。魂を売らずに名前を売る方法を、何通りも考えて、細大漏らさず等身大のままに伝えることに、半ば以上命を懸けて――あたしは走り回り、その傍らで、RACHESISはどんどん成長していった。たかが十代の少年たちが、驚くほど鋭くて迫力のある音色を、奏でるようになっていった。

 

 その頃、あたしたち姉妹は、やっとの思いでXの東京ドームのチケットを獲得した。961230日、「復活の夜」。もうひとつ言うなら、2DAYSのうち映像化されなかった方。その直前の23日には、LUNA SEAの真冬の野外もあった。あたしはその次の一年、大学受験のためにライヴ断ちをする予定だったので、それはある意味、最後の晩餐だった。そうじゃなかったら、ご褒美の前渡というか。

 結論から言うと、真冬の野外でLUNA SEAが活動休止宣言をしてしまい、秋にXが解散したことで、本気で行きたいライヴが激減し、我慢するのも随分楽だったんだけど、それはまあどうでもいい。

 で、この東京ドームにあたって、あたしは妹にひとつ、お願いをした。要するに、妹を誘った当初の目的、コス衣装を作ってくれないかなー、材料費は出すから、という話だった。目標は、SHOXXHIDEが着ていた豹柄のピーコート。妹は、型紙があればどうにかするよ、と答えたのだが、結局型紙もどうにかさせたような気がする。今となっては、やや出来の悪いコス衣装だったと言うことも出来るが、ともかくあたしはそれを着て、嬉々としてドームに行き、散々暴れて、あっという間に衣装を汚してしまった。

「あーあ、お姉ちゃん、それ落ちないよ?」

着いた染みは、サイリウムの蛍光液か何かだった。そりゃ落ちないだろう。でも、あたしは気にせず、妹も本気で気にしてはいなくて、祝祭に終った一年を打ち上げていた。

 あたしは走っていて、妹はついてきて――そういうスタンスが、永遠に続くと信じて疑っていなかった。

 

 受験勉強の間も、一応RACHESISのスタッフは続けていたんだけど、流石にその前後ほど自由自在ではなかったので、やっと解放された大学最初の一年は、暴れ回るためにあった。

 それはちょうど、RACHESISの絶頂期だった一年でもある。全員が高校を卒業し、智之が専門学校に進学した以外は、みんな音楽に専念するようになったせいもあって、彼らは正真正銘莫迦の勢いで、都内を荒らしまわった。地元三鷹を足がかりに、町田や川崎、厚木や横浜、都心の方面にも出て行った。攻撃攻撃とにかく攻撃あるのみ。たかが189歳の子供たちが、よくもあんなにいきがって、突っ走りまくったものだと思う。

いや、無知でなければ、あれは出来ない。当時誰にも、自分たちがしていることがどんなことなのか、対外的にどういうインパクトを持つのか、正確に見えては居なかった。あたしや智之は見ようとしてはいたし、敦司に至っては見えている積りで居たんだろうけど、後から思えば全然だ。唯一俊二だけが、すべてを承知で、あの美しい虚勢を張っていた。

それでも、5月に目黒鹿鳴館のオーディションに受かった時には、全員が震えた。鹿鳴館!それは東京の、つまり日本のアンダーグラウンド・ロックシーンに燦然と輝く名門中の名門だ。そこに出演することは、インディーズ・シーンの頂点に、かなり近いところまで切り込めた、という意味だ。それは間違いなく、DEAD ENDXも通った道だった。

「来ちゃったね」

「いいハコで出来るね」

あたしの、明らかに興奮した呟きに反応してくれたのは、一番温厚な恭平だった。俊二と敦司は、気合が入りすぎていて、ちょっと怖かった。智之と和馬は、まるでそんな2人に対してバランスを取ろうとするかのように、表面上は冷静にしていた。

 意気はよし、実力も、不十分とはいえ上り調子。勢いはあり、流れを掴んでいる感じはしていた。だけど、この時既に、バンド内部の緊張感は、息が詰まりそうなところまできていた。誰かが何かを言う、その小さな空気の振動だけで、5人が丹精込めて組み立てた、緻密なガラスのモザイクが崩れてしまう、そんな気配さえ漂っていた。

 それでも走り続けた理由はただひとつ、止まった瞬間にすべてが崩壊すると、誰もが無意識に、分っていたからだ。向かう先は細い細い頂点で、そこまで行ったらあとは翔ぶしか無い。もっと上にいけるのか奈落まで堕ちるのか、そこでばらばらに砕け散るのか、それは誰にも分らない。ただ彼らは、行けるところまで行こうとしていた。

 若くて不器用だったけど、お互いを尊敬する気持ちと、自分の音楽に対する誇りだけは、確かに持っていた。

 鹿鳴館の動員は150人ほどで、一見のバンドとしてはかなりのものであり、評判も上々だった。そしてバンドとあたしの目論見通り、この頃から、都内のインディーズ・レーベルが幾つか声を掛けてきた。

 そう――あたしは当時、メンバー、特に敦司からの肝いりで、幾つかのレーベルに狙いをつけて、宣伝をかけていた。要するに、彼らのインディーズ・デビュー盤をリリースする宛を探していたわけだ。大筋のデモは出来上がっていた。ただ、自力でレーベルを立ち上げたり、完全に自分たちで仕切ってのリリースは、資金的にもノウハウ的にも荷が重すぎた。それよりは、すこしでも名の知れた、条件のいいレーベルを探してリリースした方が、リターンが大きい。こういう計算をするのは大抵、敦司の仕事だった。あの子は当時から、一刻も早くメジャーに行って、名を挙げたいと躍起になっていた。

 智之はそれよりは随分冷静で地に足が着いていたし、俊二は音楽的なレベルの向上に心血を注いでいたけれど、自力でリリースする力も、必要も無いという点では、珍しく完璧に、意見は一致していた。

 そして彼らは、既に完成していたデモを練り直して、結果的に唯一となるアルバムをリリースする。タイトルは「LUCIFER」。若さと青さを補って余りある、最高に生き急いだ感じの一枚。集大成という言葉は絶対に使いたくない。もしかしたら彼らは、あそこより上に行けたかもしれなかった。ただ――その時持っていたすべてを、一枚のアルバムに昇華しただけ。

 「いいアルバムだよね。こんなに格好良い十代って、なかなか居ないよ」

あたしがそう言うと、珍しく、敦司が笑った。

「当然だろうが」と。

あれだけ自分に厳しい俊二までもが、

「まあ…よく出来たな」

なんて言ったものだ。

 アルバム自体は、レーベルのネームバリューもあって、予想外の勢いで売れていった。初回プレスの3,000枚をソールド・アウトし、じわじわと評判を呼んで、7月のリリースから僅か2ヶ月足らずで、5,000枚という恐ろしい数字を売り上げた。確かにあの当時、日本の音楽シーンは、まだ小室哲哉に始まり一大ヴィジュアル系ブームに続くバブルの狂乱の中にあったけど、それはこんなアンダーグラウンドの片隅には、関係ないと思っていた。

「何かの間違いじゃねえのか?」

和馬が言ったその一言が、全員の思いを言い当てていた。

 こんなに簡単に、上に行けちゃうんだ?――ある意味で、あたしたちは拍子抜けた。そして浮き足立った。こんな筈じゃない、もっと苦労が多いんじゃないのか、何かに上手く誤魔化されているんじゃないのか。

 そんな不安を振り払うように、9月に入ってから、レーベル側の勧めもあって、RACHESISは初めてのツアーに出かける。仙台と東名阪、福岡という小規模なツアーだったが、「走っているうちは分解しない」のならば、それは必要な疾走だった。移動や、見ず知らずの場所で全員が一見という状態でのライヴといった、初めての苦労のすべてが、メンバーを良い意味で緊張させ、不安を忘れさせた。

 ツアーは成功だった。そして気がついたら、アルバムの売り上げは10,000枚の大台に迫っていた。

 

 ひょっとしたら、俺たち行けるんじゃないか――というか、行っちまえ。

 いや、ちょっと待て、行くって何処へ、何をしに。

 

 この頃、バンドの中に渦巻いていた妙な空気の正体は、極言するとこの二言だ。そして、前者を代表するのが、一番の野心家だった敦司であり、後者を代表するのが、求道者・俊二だった。敦司の後ろには恭平が居て、智之はバックにつくほどじゃないけど俊二寄りで。1人だけ残された和馬は、所在無さそうにしていた。

 若気の至りと言い切ってしまうことは簡単で、事実そうには違いなかった。大人になった今なら分る。あそこは、浮かれずに、浮き足立たずに、バンド内部の結束を高めて、冷静な行動と、手を広げすぎない活動が大事だった時期だった。

 でも、誰だって光の当たるところに行きたくてインディーズに居る、そこから抜け出せるかもと思い、野心に任せて突っ走るのを、誰が責められるんだろう。ましてあたしたちは子供で、誰一人、そんな微妙な人間関係の機微を調整出来はしなかった。

 というか、冷静に己の立ち位置を見極めることに、既に失敗していた。

 かく言うあたしは、時が何とか解決してくれることを願いながら、自分の仕事に専念していた。つまりは見て見ぬフリをして、現実逃避に走っていた。

 そんなことをしているうちに、年が暮れて年が明け、RACHESISは全国ツアーに出かけることになる。今度は北海道から九州まで10箇所以上を回る、本格的なツアーだ。あの子たちは、あたしの春休みが始まる、2月を待ってくれた。

 最後の晩餐という言葉が嫌ならば、それはいわば、盛大な打ち上げ祭りだった。機材車で遠征するという、典型的な小さいバンドのツアーで、体力的にも厳しかった。だけど、えてしてそういう時の方が、妙にアドレナリンが出て、バンド内部の結束は高まったりする。この時がまさにそうだった。怖いくらい、諍いの無い日々。5人がひとつのことに力を合わせて、心地良い緊張感はそのままに、一途に走り続けた一ヶ月。もちろん、すべての演奏が100点というわけじゃなかったけど、全体的にとても良いツアーだった。一見のお客さんにも相当なインパクトを残せたと思うし、以前からのファンの期待には十二分に応えたと信じている。

 と同時に、あたしの中には寂しさもあった。どこへ行っても、あの子たちは雑魚寝で、あたしは一人部屋で。これはいつものことだけど、重たい機材は絶対に運ばせてくれなかったし、楽器には触らせてもくれないし。

 そのぶん、専門である物販や宣伝に専念できた、と言うことも出来る。というか、それだけがあたしの仕事だったのは間違いない。そのことを――あくまでもスタッフで、メンバーじゃないんだという事実を、おまけに1人だけ女だという現実を急に感じて、寂しくなってしまったのは、後付で良ければ、「終りの予感」ってやつを、何処かで感じていたから、かもしれない。

 それでもツアーは大盛況に終り、ファイナルは久しぶりに、ホームグラウンドの三鷹の森壱番館に帰った。どう詰め込んだって150人は入らないあの小さなハコに、どうやってあんなにブチ込んだんだという狂気の沙汰のド真ん中で、あの子たちは、この世に怖いものなんて何も無いくらいの勢いで暴れまくった。そんなに無茶苦茶やったら壊れてしまう、と悲鳴を上げたいような気も、本当はしていた。そのくらい、ステージの上でぶつかり合うすべてが、灼くて鋭くてヘヴィで、鬼気迫るものがあった。

 燦然と輝く、間違いの無い、頂点の夜だった。

 ライヴが終った打ち上げで、それこそ莫迦としか言いようの無い量の酒を飲んで、はしゃぎまくって火がついたように笑って、ふと一瞬、酔いが醒めた時だった。隣に座っていた敦司が、ぼそっと言った言葉が、胸に突き刺さった。

「なあ薫、俺たち、いつまでこうしてるんだろうな…?」

それは――あの短い狂乱の栄光を、怖いくらいに要約してしまう一言だった。

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