お前よくこの部屋で暮らせるな、というのは、智之が翔子と暮らす部屋に、初めて足を踏み入れた時の、孝史の述懐だった。智之はさも何事も無いという調子で「いつもこんなじゃねーよ」と返したのだが。

 驚くのも無理は無い。というのは、1LDKの「LDK」の部分が、見事に占領されていたからだ。フローリングの床に、かなり広々と隙間無く撒かれた新聞紙、その上には大きなサイズのイラストボード、アクリル絵の具が載ったパレット、何本もの筆が差し込まれたバケツ、カラーインクの瓶、また別のバケツ、色とりどりに汚れたティッシュペーパーやコンテ、鉛筆の類も散乱していた。

 絵描きのアトリエ、というある種のステレオタイプを、そのまま形にしたような部屋だった。

 足の踏み場は、辛うじてある。

 部屋の隅では、「すぐにでも中古のCD屋が開業できる」と噂される智之のCD棚が、汚れないように、やはり新聞紙を被っていた。

 そして肝心の絵描き――翔子だけが不在だった。

「行き詰ったかな」

冷蔵庫から緑茶のペットボトルを出しながら、智之はさも何事でもないかのように呟いた。

「そんなベタな」

孝史はそう言って呆れたが、智之にしてみれば「いつものこと」の範囲内らしかった。

 器用に新聞紙の合間を縫いながら流しまで歩いていった智之は、コップに緑茶を注ぐと、また同じ道を戻って、入り口で立ち尽くしている孝史に突きつける。

「悪いな、座るところも無くて」

「…大物すぎだ、お前は」

呆れが半分、自失していた負け惜しみが半分の調子で、孝史は返したが、智之がそれで動じる筈も無い。

「そこにある描きかけは…あんま、参考にはならねーわな。没の可能性もあるし」

そんなことを言って、放置されたイラストボードを指差した。

 

 智之の新しい同居人(イコール恋人)は美大生だ、という話を持ってきたのは、そもそも忍だった。

「私の高校の先輩で、翔子さんていうの。大学行くだけじゃなくて、絵の持ちこみとか、色々してるから、うまく話したら引き受けてくれるんじゃないかな?」

引き受ける――つまり、来るべきSIVAのファースト・ライヴ用のポスターの図柄を。

 経費以外にも、手間とか時間の制約とか色々と問題があるので、何枚でもべたべた貼ればいいというわけではない、というのは、薫が最初に言ったことだ。こういう話になると、彼女は俄然、元気になる。そして、すぐに孝史が、じゃあせっかくだから、その数枚はいいものが欲しい、と言ったのだった。

 確かにその通りだが、どうやって調達するのか。その話になった時に、忍が口を出したわけだ。

 こうして孝史が、智之が1ヶ月前から暮らしているというアパートにやってきたのは、5月アタマのことだった。

 そして、件の光景に出会ったわけだ。

 因みに、放置されたイラストボードの表は、カラーインクのブルーで埋め尽くされ、その上に深紅のガッシュで幾何学模様風の花(らしきもの)が描かれている。背景の色は、遠目にはベタ塗りに見えたが、近寄ると波に似た濃淡がある。ただし、波形もその向かう方向も一定していない。

 孝史は、あらぬモノを踏みつけないよう、細心の注意を払って近寄ると、じっとその表を見つめた。ブルーの波は、恐らく相当な時間をかけて、丁寧に計算し作り上げたものだ。が、すべて計算通りではないと見た。その一方、ガッシュの紅は、かなり勢いに任せて一気に書いたような筆遣いが、生々しく残っている。

「それは大学の課題だから、ある程度自分の描きたいものをやってるかな。仕事の絵だと、注文次第だから、信じらねえモン描いたりするけど」

後ろから、智之が声をかける。

「例えば?」

「思いっきり緻密なスケッチとか、イラストっぽいのとか、極端なのだと、そりゃ製図だろうってのとか、とにかく、頼まれれば何でも。テクはあるから、その気にさえなれば、ある程度のことは出来るらしい」

駆け出しの絵描きに仕事を選ぶ権利など無いのは当然のことだ。なるほど、と孝史が頷いた時、玄関で物音がした。

 「ごめんなさい、ちょっと出てた」

穏やかなアルトの声に続いて、あるか無いかの微かな足音が、入り口のところで止まる。

 孝史が顔を上げると、智之の隣に、翔子らしい人影があった。

 すっきりしたショートカットで、ボーイッシュと言うには柔らかい印象だが、肩幅が広めで脚が長いせいか、実際よりは長身に見える。洗いざらしのコットンシャツにも、色褪せたジーンズにも、当然のように絵の具が染み付いていたが、不思議とそれを「汚れ」と呼ぶ気になれない。同じように細身で背の高い智之とは、並んで立つと面白いくらい空気感が重なりあった。

 立ち上がり、挨拶をしようとした孝史に、先に翔子が問いかける。

「孝史さん、ですよね。気に入っていただけました?」

「宮島です、お邪魔してます…これは、これで完成ですか?」

微妙に出鼻を挫かれたので、やや歯切れが悪くなってしまった。そんな孝史に、翔子はごく淡い笑みを浮かべて、頷いて見せる。

「神崎翔子です。そうね、実はもう一色入れようと思ったんですけど、ちょっと気晴らしをしてから見直したら、その必要は無いみたい。ごめんなさいね、来るなりとんでもないものをお見せしてしまって」

いえとんでもない、と孝史が社交辞令を返そうとしたら、先に智之が、こいつが勝手に来ただけだ、と言って笑った。

 

 あら面白そう引き受けます、お礼はそうね、智之のスタジオ代3日分でどうかしら。

 孝史からことのあらましを聞くなり、翔子は即答した。

「そういう仕事、したこと無いから、いい経験になると思って。それに私、何か具体的なものを描くよりも、イメージや印象を色に落とし込む、抽象画みたいなのが本業だから」

呆気に取られる孝史に、翔子はそう言って、また淡く微笑んだ。

 その笑みの淡さと、描き出される微妙な影が、そこはかとなくミステリアスな香りを醸し出している。智之や孝史と同い年だと言うが、その色合いが輪郭線をぼかしているせいなのか、年齢不詳、という印象が先に立った。

 

 「何者なんだ?あの人は」

翌日、練習の帰り道に、孝史は忍に尋ねてみた。電車で帰る孝史が、駅前からバスに乗る忍を送っていくのは、いつの間にか習慣になっていた。

「翔子さん。お前の、高校の先輩だったよな?」

すると忍は、甘い表情を浮かべてくすくすと笑った。

「何者って…昔から、ああいう人だよ。私が1年生で、軽音部を作りますって生徒会に届けに行ったら、翔子さんが書記だったの。それ以来のお付き合い」

彼女たちの母校である藤宮女学院は、都内ではお嬢様学校として知られている。因みに制服は、これでもかというくらい時代錯誤で野暮ったい紺のブレザーだ。翔子の、あの颯爽とした立ち姿も、微妙なニュアンスのある表情にも、それはまったく似合わない。というか、想像の範疇を出てしまっている。

「気になるんだ?ムードあるもんね、あの人。ちょっかい出しちゃだめだよ、せっかく智之が落ち着いてるんだから」

短い沈黙を勝手に曲解したのか、それともそんなもの気にも留めていないのか、忍は勝手にそんなことを続けた。すると今度は、その内容が引っかかる。

「落ち着いて…って?」

「有名な話だから、ばらしても怒られないと思うけど…モテるんだよね、智之は。翔子さんの前は、寄ってくる女の子と片っぱしから付き合ってたんだけど、長つづきしなくって。ああ見えて遊んでたよ、すごく」

ガン、と100tハンマーでどつかれたような衝撃を覚えながら、孝史は智之の涼しげな顔を思い浮かべた。今時珍しい硬派だと思っていたのは、間違いだったのか。

「性格と合わないんだけどねー。『来るもの拒まず、去る者追わず』って感じ、かな」

けっこう凄いことをさらりと言ってしまう、忍のあっけらかんとした横顔に、孝史は思わず、吹き出しそうになった。

 そしてもう1度、智之と翔子の、あの不思議に馴染んでいた静かな空気感を思い起こす。そこに至る経緯はどうあれ、あの姿とあの感触は、穏やかな納得感を生み出してくれる。

 そして最後に、バス停の、前まで来てから、忍はふっと、大きな黒い瞳に、冴えた光を灯して振り返った。

「本当のことを言うと…翔子さんは、『訳アリ』の人なの。本人が隠してないから、ここまでは言っちゃうね。私が知り合ったころは、まだあんなに、ミステリアスな人じゃなかったよ。根っこのところは変わってないと思うけど」

「…何なんだ、その、含みのありすぎる台詞は」

そこまで言うなら事情とやらを話せ、と言いたいのが人情だろう。実際、孝史は言外に、そんなニュアンスを滲ませた積りだった。が、忍はそのまま、真っ直ぐに彼を見返すと、きっぱりと言い切った。

「ここから先は、翔子さんのプライバシーに関わることだから。でも、私の本音を言うと、信頼できる人に聞いてあげてほしいの」

「信頼出来る人って…まだ顔を合わせた程度だろうが」

「そう?いいと思うんだけどな」

それはとても静かだけれど、確信に満ちた響きで、眼差しの澄み切った色とも重なりあう。孝史は一瞬、その余韻の清冽さにはっとしたが――これはまた、別の物語だ。

 

 「そりゃお前、見込まれたんだよ、忍に」

一通り話を聞き終えると、智之は破顔一笑、と言うに相応しい感じで、表情を動かした。一方孝史は、それが一体何を意味しているか分らなくて、露骨な困惑の表情を返す。

 場所は、その後SIVAが打ち上げ会場として愛用することになる駅前の居酒屋で、孝史はちょうど、忍から聞いた話を一通り、智之に伝えたところだった。因みに孝史は5月生まれで合法的に酒が飲める年齢になったばかりなのだが、智之は8月生まれなので、一応まだ未成年である――飲み慣れているが。

 孝史は黙って、早々に空になった智之のグラスにビールを注ぐと、そのまま手酌で自分のグラスにも注ぎ足した。智之はその、露骨に釈然としていない顔を見て、ニンマリと笑った。

「あのな、俺と俊二って、忍が小学生の時からの付き合いなんだわ」

一杯になったばかりのグラスを早々に半分ほど空けながら、智之は返し始める。

「で、中学に上がる頃には、敦司と恭平と和馬――RACHESISのメンバーが、勢揃いでその辺に居るような生活になるわけだ。あいつさ、昔っからあの通りに人懐っこくて、しかも、オトコ兄弟いねえじゃん。素直になついてきたんだよ。俺らも、偶然だけど、オンナきょうだいがいたのが、俊二だけか…まあ、妹分として、ずーっと可愛がってきたわけだ」

自分は俊二の自称一番弟子だった、とは、孝史も何度か、忍の口から聞いてきた台詞だ。

「だからさ、去年以来、あいつなりに大変だと思う。大勢居た『お兄ちゃん』は一気に居なくなるし。俺とも多少は関係が変わってくるだろ?同じバンドのメンバーになると」

「要するに、『お兄ちゃん候補』ってことか?」

こうやって話を持ってこられると、分らいでか、という感じになってくる。孝史は智之を、最後まで喋らせなかった。

「メンバー同士なのは、俺も同じだろうが」

「いーや。俺は最初『お兄ちゃん』だったのを、もうやめだっつったから。あいつ素直だから、真面目に頑張んだよ、言われたことは。お前はそうじゃない」

そう言った智之は、何をどう贔屓目に見ても、面白がっているとしか思えない。

「何なんだそれは」

「何って、言った通りの意味だろーがよ。まァせいぜいお守り頼むぜ、『お兄ちゃん』」

そう言って残り半分のビールを干した智之は、後日この台詞の軽率さを悔いることになるのだが、これもこれで別の話だ。

 そして智之は、まだ酔った形跡も無い眼差しをすっと引き締める。

「で、聞いてみたいか?翔子の『訳』ってヤツ」

ここで孝史は、うっと返答に詰まった。人並みの好奇心の発露として、確かに、聞いてみたい。だが同時に、プライバシーに関わることを、一度顔を合わせた程度の自分が知っていいのか、まして話の流れでも何でもなく、露骨に聞きだす姿勢を取っている今の自分はどうなのか、そもそもその根性自体が下種な代物ではないのか――思うことなら、幾らでもある。

「気にすんな、あいつ全然、隠す気は無えから。ちゅうか俺も、2回目くらいに会った時に聞いたかな。相手は選んでるらしいけど、お前ならいい。俺が保証する」

しかし智之は、勝手にどんどん話を進めてしまう。

「ただし、聞いてもあいつを憐れむな。条件はそれだけだ」

そして最後に、いわば「とどめ」として、ごく静かな一言を放った。

 

 智之曰く、翔子は「お嬢様学校」として知られる藤宮女学院の生徒の中でも、かなり裕福な方にカウント出来るであろう家に、一応は生まれたらしい。一応はと言うのは、両親が離婚して、現在既にその家の姓を名乗っていないからだ。

 元来家に居つかなかった父親が、本格的に外に別宅を構えたのは、翔子が高校に入って間も無くの頃だったという。ほどなくして父親は殆ど家に帰らなくなり、とんとん拍子に離婚話が進み、翔子と母親と5歳年下の弟は、かなりの額の慰謝料を支払われて、家を出た。プラスアルファの条件として、2人の子供の大学までの学費は、金額の如何を問わず父親が出すというものもあったらしい。

 ところが、新しい生活が始まって間も無く、母親の様子がおかしくなった。物心ともに恵まれて深窓に育った母親には、夫に捨てられたという状況が理解出来なかったのだ。徐々に口数が減り、表情が暗くなり、繊細だった性格は神経質に尖って、何でもないことで大声を上げて泣いては、立ち上がれなくなった。

 もっと早く誰かが適切な処置を取っていれば、そうはならなかったのかもしれない。だが、高校生の姉と、まだ小学生だった弟には、それをどうする力も無く、また、誰に助けを呼べばいいのかも見当がつかなかった。

 気がついた時には、母親は一切の口をきかなくなり、時々発作のように泣き叫ぶほかは、何も出来ない人になっていた。途方に暮れた翔子が、連絡先を聞いていた父親の弁護士に連絡をすると、その弁護士が病院を手配して、母親は入院することになった。費用は父親が持ったという。そして、幼い姉弟はだだっ広い家に取り残されたのだ。

 だが、不幸はそれでは終わらなかった。その次の年、中学に上がった弟の幸人が、夏休み前に、学校の屋上から飛び降りて死んだ。元々繊細な性格だった幸人には、露骨な家庭の崩壊が、既にかなりストレスになっており、加えて中学入学以降、人間関係のトラブル――端的に言えばいじめ――を抱えた末のことだったという。

 幸人はそれら問題の一切を、姉に話そうとはしなかった。

 姉もまた、ぎりぎりのところに立っていると、子供なりに気遣って、何も言えなかったと、遺書には記されていた。

 こうして翔子は、18歳で事実上の天涯孤独になったのだという。

 

 「…母方の親族とかは?」

そこまで聞き終わって、孝史は殆ど呼吸困難に陥っていたのだが、辛うじてそれだけ尋ねた。

「うーん、何ちゅうか、あのお袋さんは、親族のお荷物みたいなんだわ。言っちまったらビョーキの人だからなぁ」

「だからって、」

「下々の人間にはわかんねぇ世界があるみたいだぜ。因みに父親とはマジに没交渉で、弁護士の連絡先しか知らねえとさ。弟の葬式にも来なかったらしいし」

こんなにも重い話を、聞いて欲しいと言った忍と、軽々と話してしまう智之に、孝史は一瞬、本気で恨みを抱いた。聞いているだけでこんなに苦しい話を、現実に知っている人間の実話としては、聞いたことが無い。

 何をしたらいいか分らないままに、孝史はひとつ、深呼吸をした。明らかに自分の周囲だけ空気が固形化しているので、とりあえずそれをどうにかしなければ。

 そして、つい先日、智之のアパートで見かけた、翔子の姿を思い出す。静止画で見れば颯爽とした女性のようなのに、淡い影を纏って、静かに微笑んだひと。けれどもその影は、複雑過ぎる人生と大きすぎる悲しみが生んだ澱みではなかった。盈ち虚ける月に似た、涼やかで落ち着き払った色――多分、彼女に降りかかったすべてを、受け入れたが故の。

 また月なのか、と思った瞬間、口元に淡い笑みが浮かぶ。ライヴのタイトルは「CRESCENT」、俊二の遺作で、SIVAの第1作である楽曲のタイトルだ。俊二自身は、どん底から這い上がろうとする己の姿を、満ちてゆこうとする三日月に擬えた。

「…成る程、適任だ」

思わずそう独りごちながら、孝史は目の前のグラスを干した。

 が、幾らざわついた店内だからといって、真横に居る智之が、それを聞き逃す道理は無い。

「ちゅうことだから。俺は、デザイン関係とか、そーゆーことはよくわかんねぇから、任せた」

「ああ、幾らでも」

ぽん、と肩を叩かれた、その返答と一緒に、孝史は智之のグラスにビールを注いだ。

 

 黒い画用紙に銀一色のポスターが描き上がったのは、それから10日もあとのことだった。黒い画用紙にポスターカラーで大きく描かれたのは、細い三日月。バンド名とライヴタイトルは丁寧にレタリングをしたが、場所や日時といった細かい文字情報は、敢えて素っ気無くペン書きにした。都合20枚、翔子の手にかかれば早いもので、印刷しなかったので、経費の話をすると実に安価だった。

 孝史から具体的に出たリクエストは2項目、黒背景で単色であることと、月がモチーフであること。後は任せます、とだけ。

 「ポスターとしては悪くない仕上がりだと思うけど」

ライヴ会場である、三鷹之森壱番館の前に張り出されたそれを見上げて、翔子は静かに言った。相変わらず、洗いざらしのコットンシャツ姿で、化粧気も無い。

「こんなところでしょう、スタートは。ちょうど月も細いし」

孝史のその返しに、翔子は軽く目を見開いて、小首を傾げる。

「いい絵描きになって下さいよ。俺たちも一端のバンドになる積りですから。その暁には、満月の絵をお願いします」

見開かれていた目はゆっくりとすぼめられ、落ち着き払って笑みに変わる。

「悪くないわね」

 

 1枚目となったそのポスターが評判を呼び、結局翔子はその後、SIVAに纏わるポスターものとCDジャケットを、メジャーデビュー後に至るまですべて、1人で手がけることになる。

 因みに満月が登場することになったのは、それからたっぷり10年近くも後のことだ。

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