何故、それが彼女なのか。理由は決まっている。

 ただ、彼女だから、というだけのことだ。

 説明になっていない、という反論は、一切受け付けない。

 

 RACHESISの椎名俊二が死んだらしい、と小耳に挟んだのは、大学2年の夏休みだった。俺は当時、同い年の彼を一方的にライバル視して、いつか勝負を挑んでやろうなどと、勝手な夢を見ていたので、反射的に、悔しいと思った。同じくRACHESISのメンバーだった佐野智之が新しいバンドのメンバーを募集している、という話が聞こえてきたのは、冬になってからだ。その頃はといえば、既に幾つ目になるかさえ定かではない、とあるバンドをクビになってきたところで、自由の身。連絡を取ってみよう、と思った理由は、何だっただろう。

 「宮島孝史って…ACHID RAINの?」

それは確か、直前に居たのではないバンドの名前だったが、嘘ではないので肯定しておいた。流石に、身元は割れていたようだ。仕方が無い。何しろ地元神奈川と都内をあわせて、2年足らずの間に両手の指の数より多いバンドを渡り歩いたから。特に地元では、悪い意味で相当有名だったらしい。

 幸い、名前で門前払いにはならず、とりあえず一度音を出したいからと、都合を聞かれ曲を言い渡された。ジューダス・プリーストの「The Hellion〜electric eye」。ベタすぎる選曲とも言えたが、悪くは無い。

 そして約束の日、インディーズ時代のSIVAが拠点にしていたとあるスタジオ。彼女に出逢ったのは、そこだった。第一印象が強烈だったので、よく覚えている。

 何しろ、そんなところで藤宮女学院の制服にお目にかかるとは思っていなかったから。塾講師という副業柄、都内とその近郊の高校の制服には詳しかったが、そうでなくても高名なお嬢様学校だから、見れば分る。というか、今時都内で、紺色のブレザーに膝丈のスカートなどという時代錯誤な格好をしているのは、藤宮の生徒くらいだ。

 そして彼女は、ある意味ではその野暮ったい格好が似合っていたし、別の意味では極度にアンバランスだった。美人というものの常で、具体的にどういう顔、とは言い難い。敢えて一言で言うなら「繊細」かもしれないが、真っ直ぐにものを見る黒い瞳には、物怖じしない凛とした光が宿って居たし、全体を包む空気感は、そこはかとない華やかさを持っていた。そういう「美貌」の部分は制服とは釣り合っていなかった。ただ、警戒心の無い素直な振る舞いとあどけない表情は、どうしようもないくらい、紺のブレザーに似つかわしかった。

 それにしても、何故ここに女子高生が、と思ってしまったのは、大いなる認識の誤りだった。それは、その後すぐに分ったことだ。彼女は上手かった。すくなくとも、その辺りのライヴハウスでバンドをやっている、20代前半までの世代よりは、ずっと。智之が上手いのは、RACHESISで知っていたから、何の意外性も無い。間近で確認しただけのことだ。それよりもやはり、彼女の上手さの方が、衝撃的だった。

 俺より優に二回りは小さい筈の手の、滑らかな指運。そこから紡ぎ出される、音。まだ過剰な個性には染まっていない、純潔の音だと感じた。ただ、一途に素直に、質の高い技術を積み上げるという――俗人には中々出来ないことを、きちんとやった者だけが出せる音。

 そして、演奏が終った瞬間、彼女は、いっそ気高いほど強い眼差しで、こちらを見ていた。言うまでも無くそれは、全体の調和も何も考えず、自分の個性を押し出すことだけを考えて弾いていた俺に対する、怒りだったんだろうと思う。だが、それがどんな負の感情であっても、混じりけ無しに突き詰めれば美しいということを――その眼差しは証明していた。

 それが怒りでも悲しみでも喜びでも、浮かべる時にはいつも、潔いほど純粋に、それだけを突き詰めるからこそ、彼女の瞳はいつも透き通っていた。水晶の矢だったり、氷の刃だったり、光を透すダイヤモンドだったり、輝きの種類は刻々と変わっていったが、それだけはいつも変わることが無い。あの日から、今日この瞬間に至るまで、ずっと。

 

 ところで、セッションの結果については、メンバーでよく話し合った上で、後日連絡されると言われた。まあ、そんなところだろう。だが、俺にはその時、何の根拠も無い完璧な自信があった。自分はこのバンドでやっていくんだという――音楽で身を立てるなんて、考えたことも無かった分際で。

 だが俺は、人生の岐路に立つ時、大抵そういう風に、わけの分らない自信を持って臨んでいたような気がする。小さいことなら受験の前でもそうだったし、すこし話を大きくするなら、メジャーデビューの前もそうだ。幾つか提示されたレコード会社の名前の中から、大して悩みもせずに、今の所属先を選んでいる。

 まあ、後で述べるように、例外がひとつだけ、あるのだが。

 

 数日後に「追試」という連絡が来た。曲は同じ「The Hellion」で、アレンジは好きにしていい、と敢えて言われた。その時の感想は「勇気のあるバンドだな」ということだ。初回の演奏である程度、俺がとんでもない演奏をするギタリストだということは、分っている筈だ。それを、強いてもっと見ようとする。そうやって扱われることは、心地良くも光栄でもあった。とにかく、本気で実力を測られているのだから。

 智之と総一郎は、初回の時にも2回目にも、ある意味で淡々とした落ち着きがあった。それが、あの2人が当時持っていた、キャリアの意味だ。逆に悠太は気の毒なくらい緊張していて、顔に必死の2文字が書いてあった。それから彼女は――ぴんと張り詰めた空気を纏って、自然体の中に覚悟を滲ませていた。

 最初に心がけたのは、一旦後ろに下がってみよう、ということだ。個性を押し出せる場所は、ほかにもあるし、前回もやった。衒わずにやったらどの程度になるかを、偽らずに見せておく必要があるだろう。

 我ながら、無謀だとは思った。誰にも似ていない自信はあったが、技術は我流もいいところなので、正直、土台を支えるには心許なかった。だが、仮にそれを隠蔽しようとしたところで、底の浅さは見抜かれる筈。万が一、隠しおおせたとしたら、そんなバンドは大したものではないだろうし、自分にとって良い結果を招くとも思えなかった。今にして思えば、大した自信だと思う。

 果たして結果は、随分と物足りないものになってしまった。歯痒い。彼女が、鮮やかだっただけに。その瞳と同じくらいに穢れの無い、澄み切った旋律は、許されるなら、翼を広げて舞い上がった筈だ。枷をかけてしまったのは、紛れも無く、俺だった。そして、その悪条件下でも、彼女はよく弾いていたと思う。

 だが、既に紡ぎ出されたものは、もう取り返しがつかない。音の返礼は、音でするしか無いだろう。そして、その方法は、出せる限りの音を曝け出す以外に有り得ない。

 当然ながら、迸った音は、悪魔も顔色を失う勢いで、醜く歪み、狂い果てた。そこに、彼女の音が喰らい付く。大した気丈さであり、技術だと思った。瞬間的に、俺の音を聴いて、全体のバランスを計算し、バンドの中に組み込んでゆく。

 応えられるとそれ以上を返したくなるのが悪い癖で、2本のギターの鍔迫り合いは、恐ろしい勢いで加速していった。そして恐らく、その熱が、バンド全体に火をつけた。

 バンド・サウンドのセオリーとは――ベースが刻むビートを基点に、ヴォーカルとギター(場合によってはキーボードその他の楽器)でメロディラインを構成する。それらの音を、ドラムの響きで結び合わせる。それだけのシンプルな作業だが、そこには時として魔物が宿ったり、神が降りてきたりする。そして、その日SIVAは、初めて「その瞬間」を迎えたのだった。

 最初に反応したのは、智之だった。ギター2本の先走りを支えたのは、間違いなく、あいつの音だ。自分も大概、派手な音を出すくせに、ボトムを支えるという基本動作を、決して疎かにしない。それはあいつの、プレイヤーとしての、最高の美点だ。

 次に悠太。どうにか譜面通りに叩くだけで必死になっていた少年が、いつの間にか、確信に満ちた強い響きを生み出していた。恐らく、自覚は無い。ただ、俺たちに置いていかれないようにと、人並み外れて集中していただけだ。そうやって、それからも、あいつは幾つもの壁を、そうと知らないうちに、乗り越えてきた。

 最後は総一郎だ。周囲の人間が好調であればある程、良い声を出す。その伸びやかな歌声が、最後は楽曲をひとつに纏める。昇華させる――バンドマジックの一瞬が、生まれる。

 演奏が終った後、5人は我知らずのうちに、顔を見合わせていた。それは恐らく、智之以外の人間にとっては、初めての経験だっただろう。俺にとってもそうだった。どうやら、この5人だ――お互いにそう思っているのは、疑いの無い事実だった。

 その時だった。楽器を置いた彼女が、つかつかと目の前に歩いてきて、言った。

「技術が足りない。そこはもっと磨いてよ。じゃないと私が、ずっと後ろで支えてなきゃいけない。だけど――翔びたい時には、遠慮は要らないから。一番高いところまで行かせてあげる。さっきので、わかったでしょ?」

真っ直ぐで迷いの無い視線が、じっとこちらを見ていた。

「それはそれは、どうも」

後付で考えるならば、その返答はひょっとしたら、照れ隠しだったのかもしれない。

 

 彼女はいつも、そういう真っ直ぐな目で、こちらを見ていた。最初に痛感することになったのは、その日から決して遠くもない、最初のミーティング。この時俺は、最初の活動方針を巡って、早々に智之と火花を散らしていた。それは別に、あいつに対して思うところがあったわけでも、バンド内の空気を悪くしたかったわけでもないのだが、若くて遠慮が無かったせいで、議論が喧嘩調になり、ついて来られなかった外の3人を、見事に疎外してしまっていた。

 「ちょっと!」

どのくらい、そのままで突っ走った後だったか、彼女に会話をぶった切られた。

「いつまでも2人だけで盛り上がるつもりなら、そろそろ帰りたいんですけど」

恐らくそれは、このくらい言えばこっちが大人しくなるだろうという、脅しではなかったかと思う。無論こちらに、その魂胆に付き合う義理は無いが、そうやって何の邪念も無く突っ込んでこられる、その気丈さには敬意を表そう。

 議論は、始めたら半端で終らせてはいけない。それは、俺だけでなく智之も考えていたことで、だから2人はまだ当分、そのまま話を続ける積りだった。殴り合いに発展したら、それもそれで構わなかった。が、確かにほかの3人を付き合わせるのは気の毒かもしれない。

「そうだな、じゃ帰っていい」

いつもの素っ気無い口調で、智之が言った。

 ところが彼女は、それでもまだ引き下がらなかった。

「総一郎と悠太は帰っていいよ。私はもうしばらくここにいる」

あどけなさの残る面に、目一杯の真剣さを浮かべて、言い切った。

「殴り合いのケンカになりそうだったら、止める役が要るでしょう」と。

 結論から言うとその読みは正しくて、確かにその1時間後くらいに、殴り合いになっている。それは別に、相手が憎かったわけでも邪魔だったわけでもなくて、単に未熟者2人が激論を戦わせたら言葉が足りなくなっただけだ。それで、徹底的に話し合ったことでお互いが何者だかよく分り、意気投合することにもなったのだが、流石にその展開が、彼女に予想出来る筈も無い。

 そして、加熱したら止められる、と分っている状況では、自ずとブレーキがかかってしまって、意見が出し尽くせないと思ったので、こう言った。

「気持ちはありがたいんだが、どうせならここは外してくれると助かる。途中で下手に止められると、妥協して妙な結論を出しそうだ。第三者が居ると思うと、集中出来ないしな」

 一瞬、彼女は何かを言おうとしたが、結局、唇を引き結んで、何も言わずにこちらを睨むと、踵を返して去って行った。

 悪い、と思わなかったわけではないが、それよりもその時は目の前の議論が大切で、視界から消えたらそれまでだった。未熟だった、と今なら言えるのだが。

 当然と言うべきだろう、彼女はその、不当な扱いに納得しなかった。

「ひとつだけ、お願いがあるんですけど」

そう言われてとっ捕まったのは、翌日のことだった。

「あんまり、男の意地の張り合いをしないでくれる。それ、私には全然、理解できないことなの」

辛うじて、「男の意地の張り合い」が何を意味するかまでは分ったものの、だからどうした、と思ってしまったところが、救い難い若さだったと思う。

「それは失礼」

だから、リアクションも極めて淡白で、言ってしまえば失礼極まりない代物で、反省の色は微塵も無かった。

「要らないことで揉めた積りは無いんだけどな」

そう思えばこそ、そんなエクスキューズが平気で口をつく。確かに、あの時智之と喧嘩をしたのは、今となってはいい思い出だし、バンド内部の役割分担という意味でも、人間関係的にも、大きくプラスに働いた。だがそれは、どこまで行っても俺と智之と2人の事情で、彼女には確かに、関わり合いになれる箇所が無かった。

「だから!それじゃ私、目の前で何が起きているか全然わからないの。自分にも関係あることなのに。せめて説明くらいしてって言ってるんだけど」

どうにか、自分がとっつける所を見つけようと、必死だったんじゃないかと思う。そこまで一途にならなくてもいい、と思えるくらい真っ直ぐに、彼女は俺を見上げていて、その潔さはいっそ美しいとも思えた。

 ここで俺は、些かの悪戯心を起こす。

「それじゃ訊くけど、あんたここで、何をやりたいんだ?」

それは実は、まるきり勤め先の塾で生徒に質問をする時と同じノウハウでやっていた。

「何って…」

「何で音楽をやってるんだ?」

質問の意味をはっきりさせるまでは、考え込む時間を与えない。二段構えにしたのは単に質問の印象を強くする程度の意味しか無い。

 彼女は、真剣に困っている、と誰から見ても分るくらいの表情で、言った。

「…いきなりそんなこと言われても困る。物心ついた時からやってたから。うち、両親が音楽関係だから、空気と一緒なの」

考えの読み易い、ひょっとしたら読み易過ぎる子だな、とその時思った。演奏の揺ぎ無さとは対照的に、幼くて危なっかしい、と。まだ信用出来るかどうかもよく分らない俺のような相手に、こんなに素直に感情を曝け出す必要は無かったのだから。

 いずれにしても、彼女は必死に次の言葉を探している風で、探す以上は待たなければと、しばらく黙っていたら、苦し紛れにこう言った。

「何も言えないからって、こういう切り返しをするのは卑怯かもしれないけど、それじゃ孝史さんにとっては、音楽って何なの?」

そう来るか、という思いが半分、定石通りの切り替えしだなという思いが半分。そして、痛いところを、という私情が湧き上がり、口元に苦笑が浮かぶ。

「ちょっと抽象的になるけど…自分で何かが出来そうだ、と思った、初めてのもの、だな」

予め回答を用意していなかったので、決して流暢にとはいかなかった。彼女とは違い、俺には、初対面に近い相手に、あけすけに己の裏事情を話す趣味は無い。

「俺の場合は、最初にどうしても、やりたくないことがあったんだ、実は。それで最初は、代わりに何をしたらいいかと思って、色々なものに触れてみた。文学とか美術とか舞台芸術とか、色々な。その中で何故か音楽が、一番肌に合ったというか、唯一自分でやってみようと思えたことで…だから今は、それを使って何処まで行けそうなのか、確かめたい」

だが、すくなくとも、発端にある下らない家庭問題を除けば、話してもいいだろうとは思えた。何しろ彼女は、初対面からその瞬間まで――を通り越して今現在に至るまで、が正確なのだが――信じられる、と言うよりは、信じるしかない、というくらいの素直さで、相手に向かって自分を投げ出してしまうから。誰に対しても心を開いて、閉ざさない、とも言えるだろうか。

気が合うか否か、どの程度喋れる相手かは別として、信じてもいい、と思わされてしまった。それは決して不愉快なことではなくて、そういう気持ちを起こさせる相手と音楽が出来るのは、悪くない、と思えた。

などと、俺が大量の要らぬことを考えている間、彼女はゆっくりと俺の言ったことを咀嚼して、会話の続きを導き出した。

「ちなみに、孝史さんて、本職は何をしてる人?20歳だよね」

多少込み入った話をしたところで、相手の素性を知りたくなるのは人情だ。その後で、大学名や専攻を尋ねたのは、当時高校3年生だった彼女の周囲が、基本的に受験生ばかりで、そういう話題が身近だったからこその、野次馬根性だったんだろう。で、大学名を出せばけっこうな確率で恐れ入られるのは、もう分っている。

「…音楽なんかやらなくても、他にも出来ること、いっぱいあるんじゃない?」

やや呆れたように、彼女は言った。確かに、やったことなら色々とある。だが、彼女の言い分(そして、世間の大概の言い分)とは、原因と結果が逆だろう。やったことの結果として、俺はたまたま、あの大学に入学し定められた過程を修めて学位を取得した(当時まだその途中だったが)。別に、学士号を取ったから何が出来る、というわけでもない。

 とはいえ、そんなことを言っても大概の18歳には通じない、というのは、塾の生徒たち相手に立証済みなので、無難なことを言って誤魔化すことにする。

「たかが大学名で食っていけたら、誰も苦労はしないよ」

そこで終らせても良かったかもしれない。その続きを言ったのは、仏心だったのか、それとも彼女が必死になって食らい付くのが、多少はいじらしく思えたのか。

「ただ…音楽莫迦になるのは嫌なんだ。それだけで渡っていけるほど、世の中甘くは無いだろうし、視野は広く持ちたい。学びたいことも考えたいことも、色々あるからな」

と、そこまで言ったら言葉を切れなくなった。喋りすぎだ、とも思ったが、こうなったらすべて言ってしまいたい、とも思っていた。彼女になら多分、通じるという――例によって根拠の無い自信も、実は多少あった。

「結論から言うと、無駄な努力が嫌いなんだ、俺は。駄目なら駄目で見切りをつけるのは早い方がいいし、こういう性格を受け入れられない相手に、無理に合わせても仕方ない。それもそれで、絶対どこかで破綻するしな。せっかくやると決めたことは、確実にものにしたいし、そのための努力は惜しまない。納得出来ない妥協もしない」

一息に、そう言い切っていた。

 そこまででふと、一方的に喋りすぎたな、と思い、言葉を切る。そうして見返した彼女の瞳には、泣き出す寸前のような、必死の光が瞬いて見えた。藤宮の生徒ならそうかもしれない、と言うのは失礼だろうか。だが、暖かいところですくすくと育った子供には、自分を否定しかねないもの、より強い自我に接した時に、自分を守る術が備わっていないことがある。何しろ攻撃された経験が無いのだから。それは、人生のこの段階では決して悪いことではないだろう。自我が「無い」なら問題だが、今持っているものを支える強さは、これからの時間で身につければいい。多分彼女はあの時、それをやろうとして、必死になっていた。

 泣かせてしまうわけにもいかないので、とりあえず話題を元に戻す。

「因みに、3歳からやってたって、幾ら何でもこのジャンルの音楽じゃないだろう。それをこっちに切り替えたのには、それなりに理由があるんじゃないか。それがあんたの、音楽をする理由だと思うんだけどな」

それに対して彼女は、きっぱりとこう返した。

「…今週中に、答えを用意するから、ちょっと待って。それと、あんたじゃなくて、忍です」

見上げた気丈さだと思う。

「けっこう頑張るな」

「大事なことだから」

そう言って彼女は、清冽、という二文字が相応しい綺麗な目で、毅とこちらを見た。それは、ちょっとどころではなく忘れ難い、いい表情だった。

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