初めてその人を見かけた時の感想はといえば「写真より綺麗だ」っていうこと。正直、そんなのってずるい、と思った。だって、河村あすかと言えば、美人の代名詞みたいなモデルさんだったから。

 でも、確かにその人は、優雅としかいえない足どりでやってきて、その存在だけで、さえないオフィスを華やかにしてみせた。最高にシンプルであることは最高にエレガントだと思わせてくれるようなジル・サンダーのワンピース、最強にして永遠の定番っていう形をしたバーバリーのコート、全体の印象をやわらげる穏やかな色のスカーフときゃしゃなパンプスはエルメスだった。

 ため息がでるようなコーディネートだ。着こなすとは、ああいうことをいうんだ。アクセサリーは時計だけで何の飾りもないけれど、色、形、素材の質感や空気感が、ここしかないというポイントで決まっている。そのうえすべてがぴったりとこの人に似合っていて、組みあわさった時にはシックさと優美さが倍増する。どれも着まわしがききそうなデザインばかりなのに、今この瞬間には、これ以外の組みあわせがうかばない。

 ポカンとしてみとれていたのは、私だけじゃなく、ほかのスタッフもだったんだけど、デザイナーの佐藤先生だけが動じていなくて、普通にあいさつをしていたっけ。

 内面からにじみ出るオーラが輪郭をあわく発光させるような――そんなオーラにあてられて、ただつっ立っていた私の目線が、ふと巡らされたその人のものと交差した。するとその人は、かすかに目元をゆるめると、よろしくね、と言った。

 あれは私が今までに見た中でも、指折りに印象的なあいさつだったと思う。

 

 中原忍という名前は、母校・藤宮女学院の歴史に、不名誉な名前を刻んでいると思う。なにしろ都内有数のお嬢様学校とって初の、卒業後進学でも結婚でもない道を選んでしまった生徒だから(さすがに最近はないけど、何十年か前には、卒業後すぐお嫁にいってしまう卒業生もいたのだ、ちなみに)。

 高校最後の夏休みに、ロックバンドのギタリストになるという大事件を起こした私は、ほとんど決まりかけていた短大の推薦を断り、卒業後はアルバイトをしながら音楽を続けることにした。両親からは、家にはいてもいいけれど自分のことは自分でどうにかしなさい、と言いわたされて、扶養を外れる、ということの意味をじっくり説明された。勤め先が決まってすこし落ちついたら、払える額でいいから家にお金を入れなさい、とも。

 そうして私が見つけたのは、ちっとも有名ではないファッションデザイナーの事務所の雑用だった。週5日フルタイムで、がんばれば1人暮らしも考えられるくらいのお給料が出ることと、大好きな洋服に触れる、かもしれない仕事だったので、即決でその事務所に入った。

 佐藤幸宏さんというその先生は、ちょっと素敵なゴス服を作るというので、一部のバンギャルの間では有名だったんだけれど、何しろ家賃が安いなんていう理由で立川なんていう地味な街ににオフィスを構えているくらいだから、それはもういろんなことに無頓着で、お商売がへたな人だった。

 私はその佐藤先生の事務所で、お茶をいれたり、書類を整理したり、電話をうけたり、ちょっとは商品を扱わせてもらったり、まあとにかく、ありとあらゆる本当に雑用を、せっせとこなしていた。

 ちなみに、いちおう高校は家政科を出て、ゆかたを縫えるくらいの腕前はあったので、忙しい時はお針子としても活躍し、おかげさまで裁縫の腕はセミプロ級だと自認している。

 そしてそのころ、私は、大好きだったその職場に、辞表を出したところだった。

 つまり私は、その秋にはじめての出産を予定していて、そうなればさすがに、しばらくの間外で働くことはむずかしい。なにより、小さな会社で、1人抜けるとまわっていかないから、長い休みなんてもってのほかだ。

 残念に思うことは色々あった。バイトながらに、きちんと仕事のしかたを教えてくれた職場だったし、人間関係もとてもよかったし、何より洋服まわりの仕事は大好きだった。それからもうひとつ、河村あすかと仕事ができなくなるのは、ちょっとくやしいことだった。

 河村あすかがモデルをやっていた雑誌「クラウディア」は、20代をメインターゲットにしている雑誌なので、私にはぎりぎり縁がなかったけれど、毎年かなりの本数のCMに出演していたし、化粧品の広告もやっていたので、普通に生活しているだけでも、とにかくよく見かけた。

 どんなに見かけても「ごちそうさま」を言う気にならないというか、いやみのないエレガントさを持った人で、でも同時に、どこにいても何となく目をひいてしまう、不思議な華やかさも持った人だった。

 ただ、あまりにもきれいすぎて、ちょっと現実感はない人でもあった。だから、つややかな深紅のルージュをひいた広告写真も、それだけで芸術品級のきゃしゃな手で透明なミネラルウォーターのボトルを持つCMも、ため息が出るくらいすてきだった。でも、たとえば、白物家電や薬のCMをしている姿は想像がつかない。河村あすかが冷蔵庫から野菜を出したり、風邪をひいて咳をしたりしてはいけない、気がする。

 だから、そんな彼女が結婚したと聞いた時には、「一体どんな人が、あんな人を好きになったんだろう」と思いさえした。さすがにあれはCM上の演出で、本物はもうちょっとちがうのかな、とか。

 それで、半年くらいで離婚してしまったと聞いた時には、不思議な納得感があったりもした。やっぱり、女神様を家庭に入れておくのは無理なんだな、みたいな。

 が、その瞬間に佐藤先生が河村あすかの事務所にコンタクトをとった時は、スタッフ全員がのけぞった。先生は、「女性タレントはクリーンなイメージが命ですから、今、彼女の価値は暴落してると思います。だったら安く買い叩けますよ、絶対」なんて平然と言っていたけど、うちみたいな弱小会社に、日本全国誰でも知ってる大物が来るか、ふつう!っていう話だ。

 で、また、河村あすかサイドがこちらの言い値でオファーを受けてくれたのに、さらにのけぞった。確かに、彼女の値段はいっきに下がったらしかった。

 そして――実際、オフィスにやってきた彼女を見た時の感想が、冒頭のものになる。これまで見てきたどの広告もCMも、彼女を「日本を代表する美貌」として映していたにもかかわらず、それらのファインダーは、すべてを捉えきれていなかったんだと思う。彼女を包む空気の、何ともいえない柔らかさとか、真珠色の肌に落ちる影の、微妙すぎるニュアンスとか。近くで、じかに見ていると気づかされる、あまりにもたくさんのディテール。それらすべてが、あたり前のような静けさで、美しいとはどういうことかを、教えてくれた。

 

 ところで、佐藤先生の事務所はもう1人、やたらときれいな人を扱っていた。といってもその人がじかにオフィスに来たことは1度もなくて、スタイリストの人が衣装を選びに来るか、外でやる展示会に顔を出すくらいで。しかも私は展示会の時は留守番をおおせつかっていたので、直接会ったことは1度もない(たった1度だけ、その人が会社の忘年会に顔を出した日は、風邪気味で早退してしまい、あとから「来ていたよ」と聞いて地団駄をふんだ)。

 その人というのは、人気ヴィジュアル系バンドDevil May Care(通称D.M.C.)のヴォーカリストSIN、つまり「敦司兄」だ。

 RACHESISをやめたあと、三鷹を出て行った敦司兄は、すぐに新しいバンドを始めて、とんとん拍子に動員をのばし、たったの2年でメジャーデビューを決めてしまった。そして、ヴィジュアル系ブームは去りかけていたはずの世の中で、ポーンといいセールスを記録してしまった。

 あの日から2度と連絡はないけれど、それ以上に、敦司兄は遠い人になり果てた。

 そして――河村あすかが佐藤先生の事務所に顔を出すすこし前、某写真週刊誌に、「河村あすかの交際相手」として報道されてしまった。

 電車の中吊り広告でそのことを知った姉が、あわててその雑誌を買ってきて、姉妹仲良くスクープ写真とやらをにらみつけた。そこにはたしかに、敦司兄と、河村あすからしき2人が談笑している姿があった。

 「…ま、これだけで『新恋人』っていうのもどうかと思うけど。立ち話くらい誰でもするだろうし」

しばらくして、あきれたようなため息まじりに、姉が言った。

「だけど、河村あすかって、モロあっちゃんの好みじゃん。今フリーだとしたら、ヤバイと思う」

何がヤバイのかはよくわからないけど、私もそう思う。バンドマンのわりに、敦司兄は遊んでない人だったけど、それは、女性の好みがとにかくうるさいのが、大きな理由だった。性格はもちろん、とんでもない面食いで、並の女の子には興味もわかないらしい。

 だからいつも、敦司兄は、びっくりするくらいきれいな人を連れていた。清楚なようでいて妖艶で、そこはかとなくミステリアスで、儚げな透明感もそなえている――河村あすかは、そんな敦司兄の好みに、確かにぴったりだった。というか、ありえない理想像が形をとったみたいな人かもしれない。

 「いずれにしても、何やってんのよ」

姉は、そのすこし前に発売されたD.M.C.のアルバムの売り上げが思わしくないのを、とても心配していた。個々の楽曲はいいのに盤としてのコンセプトが絞りきれていなくて、全体の印象がぼやけているとか、何とか。思わしくないのには理由があるようなことも言っていた。

「こんなとこで目立ってる場合じゃねーだろっ!」

とは言っても、その日のところはそんなことを言って、買ったばかりの雑誌をまるめて、ごみ箱に放りこんだんだけど。

 

 そんなこんなという盛大な前フリをして、河村あすかは私の前に姿を現した。表むきは、あくまでもすっきりした顔をして。何か、自分で起こした企画書を持ってきたみたいだった。

 そして彼女は、あのあいさつをしてくれたのだった。

 何の形になるものでもないのに、とても上品で、おだやかで。無造作にこぼれる長い髪の毛のひとすじまで、きちんとあるべきラインを描いているみたいな。

 ほんの数秒のことだったのに、彼女は私が持っていた先入観のすべてを打ち砕いて、呆然とさせてくれた。

 あまつさえ、こんなことを言いさえした。

「佐藤さん、この子すっごく可愛い。良かったら、うちの事務所に紹介するけど、どう?」

「残念ですね、彼女は妊婦ですよ。夏でここの事務所も辞める予定ですから」

そして佐藤先生は、何もリアクションできない私をさしおいて、さらさらと事実を述べた。

 その瞬間だった。河村あすかの表情が、崩れた。極上の筆で描いたみたいな目の輪郭が押しひろげられて、ローズ色の唇が半開きになる。どんな表情をしても美人は美人だけど、それは間違いなく、「締まらない」表情ではあった。

「今、何ヶ月になるの?」

「もうすぐ5ヶ月です」

「そう――いいわね。羨ましい」

やっとのことで、短い返事をした私を、河村あすかは、まっすぐに見ていた。そしてゆっくりと目を細めて、寂しそうな笑みを浮かべた。一瞬だけ。

「あーあ、残念!こんな可愛い子をスカウトして帰ったら、すこしは事務所の覚えがめでたくなるかなと思ったんだけど、それは駄目ねえ、実力で勝負しないと」

そして、その1秒後には、華やかな表情でそんなことを言い放った。

 でも私には、その変わり身の早さよりも、その一瞬だけ前、閉じそうにすぼめられたまぶたの奥の、涙に似た光が忘れられなかった。


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