初めてあの人に会ったのは、高校に入学して、塾通いを始めた初日の、英語の授業だった。それからの三年間、選んだわけでもないのに、私は彼の授業を受講し続けることになる。そして残念ながら浪人生となった時にも、彼は教壇に立っていた。そのままあと一年、そこに居てくれるものだと、信じて疑いもしなかった。

 

 「起きろ、梅崎」

鋭い声に弾かれて、顔を上げる。英世アカデミーの名物講師、マトリックスこと宮島先生が、声よりも更に鋭い目つきで、こちらを睨んでいた。

「先生、新田も寝てます」

斜め前の席の、居眠り常習犯は、私のうつらうつらなど可愛く見えてしまう、既に熟睡モードだ。何だか悔しかったので口答えすると、宮島先生は落ち着き払って返した。

「そいつは受かる気が無さそうだから、起こすのは時間の無駄だ。お前はそうじゃないだろう」

私はこの人に進路指導をして貰ったことは無いし、授業以外の接点は何も無い。なのに、妙に自信を持ってそんなことを言えるのは、何でだろう。そしてそれが、大概当たっているのは。時々、そんなことを考えていた。

 

 彼にマトリックスというあだ名がついているのは、基本的には、色の濃いスーツばかり着ているのと、妙に冷静で機械っぽいところがあるから、だけだと思う。あとはきっと、最初に呼んだ奴が映画にハマっていたんだ。でも、確かに嫌味ったらしいくらい落ち着いていて、若い筈なのに態度がデカくて、行く先にバリケードがあっても無言で蹴倒していきそうな雰囲気はあった。だから、よくついたあだ名だと思う。もちろん、面と向かってそう呼ぶ勇気がある生徒なんて、一人も居やしなかったけど。

 大勢居る生徒の中で、彼が妙に私を気にかけてくれたのは、その中で数少ない、高校三年間フルで教わった生徒だからだろう。プラス、浪人してしまったから。二年生の後半から、彼は私の志望校を知っていたと思う。そして、他の教科のことは知らないが英語に関しては大丈夫だろうと、太鼓判を押してくれた。

 なのに私は、入試当日にインフルエンザに罹ってしまって、無理に試験会場まで行ったはいいけど、意識は朦朧としていたし座っているのさえも苦痛で、とうとう途中退席せざるを得なかった。その勢いで体調不良を引きずってしまい、ベストコンディションで臨めた試験は見事にゼロ。そして最後には、不合格通知の束が残った。

 運が悪かったなとか気の毒にとか、他の先生たちは色んな気休めを言ってくれたけど、彼だけは違っていて、それなら早速次の準備に取り掛かろうと言い出した。お蔭様で、打ちのめされた高校三年生に休みは無くて、その足で浪人生活を始めることになった。最初は何て冷たい奴だ、流石マトリックスだと思ったけど、それが復活の足がかりになったと、今なら分る。

 教壇に立っていたその人は、眼鏡の向こうの鋭い目で、間違いの無いものを見据えていた。

 

 映画を観た奴の中には、あれはマトリックスなんてもんじゃない、エージェント・スミスだと言う奴も居た。そのココロはただひとつ、彼は塾講師の分際で、鬼のように宿題を出したのである。それが学校の予習復習よりも早く済んだ例は、一度として無かった。

「先生、こんなに出来ません。俺たち学校の勉強もあるし」

あれは二年生くらいの時、言い出したのは誰だっただろう。とにかく、あまりの宿題の多さに音を上げた、確か男の子だった。するとマトリックスは、したり顔でこう言った。

「ここに居て、俺についてくる限りは、志望校がどこでも合格出来るようにするのが俺の仕事だ。だから、そのようにしている。それが嫌ならクラスを替われ」

確かに…彼の出す宿題は、量は多かったが難しすぎる、ということは無かった。いや、簡単だったわけでもない。ただ、確かにあのお蔭で、私はいつも模試でいい点を取れていたと思うし、クラスでは英語が理由で浪人する奴は殆ど居なかった。

 

 あの頃、私たちが休み時間、妙に盛り上がっていた話題がある。それは、マトリックスは実年齢幾つなのか、という話だった。それが分らない。ほかの教科の先生たちには丁寧な言葉遣いをしているし、顔立ちからしても若いような気がする。でも、教えるのは上手いし、本当に若かったらあんな態度が取れるか?案外、三十を過ぎてるんじゃないか?等々、説は色々出て尽きなかったが、誰も本人から正解を聞きだす勇気は無かった。何と言われるか分りきって居たからだ。

「それはお前たちには関係ない」って。彼はきっと、そう言ったに違いない。

 

 多分彼は、大多数の生徒にとっては、合格請負人の鬼講師で終っていただろう。後になって、思い返せば大学に入れたのはあの人のお蔭だとか、ヘンな講師が居たとか、そんな風に漠然と思い返すことはあるかもしれないが、きっと大多数が顔や声は忘れている。

 私が彼を思い出せるのは――たった二つの出来事のお蔭に過ぎない。

 一つ目は、浪人生を始めて間もなくの四月。既に受験勉強は再開していたものの、友達の殆どが現役の大学一年生になり、塾のクラスも半分以上知らない奴に入れ替わって、何とはなく陰鬱になっていた、妙に明るい朝のこと。授業が始まるまではまだまだ余裕があったけれど、自習室は開いているだろうからと、莫迦に早く塾に行ったことがあった。

 流石に通勤ラッシュの時間は過ぎているので、電車はそんなに混んでいなくて、でも座れるほど空いているわけでもない。それでも、見覚えのある顔なら、見つけてしまうには十分だ。

「宮島先生」

何か考えるよりも先に、声が出ていた。

「ああ、梅崎か。おはよう」

そう言った彼は、確かにいつもと同じような、色の濃いスーツを着てきちんとした身なりだったけど、教壇に立っている時に比べたら、随分疲れて見えた。

「朝から湿気た顔をするんじゃない。お前は勝負師なんだから。そういう時は、ハッタリでいいから、元気にしているものだ」

と、そのくせ口では偉そうなことを言った。

「そういう先生も、なんか、眠そうなんですけど」

無敵のマトリックスが妙に隙を見せるので、私はつい嬉しくて、思い切り突っ込んだ。すると宮島先生は、眉間に軽く皺を寄せて、面白くなさそうに言った。

「…だな。お前にばれるようじゃ、どこから見てもそうなんだろう。ヤキが回ったかな」

そう――顔立ちは若いくせに、妙に親爺臭いことを言うのも、年齢不詳の理由だった。

 彼が表情を崩したのは、その時だった。手ぶりだけで私に断りを入れて、スーツの胸ポケットに手を入れる。取り出したのは携帯で、通話はほんの何秒か。相槌を、ちょこっと打っただけ。でも、その短い時間、彼を包んだ空気は、マトリックスの印象からは絶対に有り得ないくらい、柔らかくて優しかった。

 そして彼は、言われるまでも無く、私が寄せている不躾な視線に気づいたらしかった。

「何が言いたい」

そして、あからさまにこちらを攻撃する目線で、返してきた。案外大人気ない人だなと、その時思った。

「彼女?」

こうなったら勢いなので、リアクションを完璧に予想しながらも、私は尋ねていた。そして彼はと言えば――あっという間に鉄壁の表情を取り繕って、こう返した。

「お前には関係ない」と。

 もうすこし何か言ってやろうとしたところで、電車が駅に着いてしまったので、私と彼は歩き始める。会話も自然に、そこで途絶えた。

 そして塾の前まで辿り着いてから、彼は私にこう言った。

「今日は世界史と漢文の日だな」

考えてみれば、講師が生徒の時間割を把握しているなんて、当たり前のことかもしれない。でも、すくなくとも彼は、私がいつ、何を受講しているのか、カンニングペーパー無しで、わかっていたことになる。最低限、その日だけだとしても。

「…そうです」

「下らないことで驚くんじゃない。こっちも仕事だからな。志望校と履修教科と成績は、正確に把握してるんだよ」

そして彼は、珍しく、一言多く喋った。

「あのな。人間、やりたいことをやってるうちは、常識外れに辛くても死なないものだ。そう思って頑張れ」

今思えば――それは彼が、疲労困憊した自分に、言い聞かせていた言葉かもしれない。

 

 そして、二つ目の記憶――梅雨明けの暑い日。気晴らしに買い物に出かけた町で、私は、これ以上無いくらい、有り得ないものを見つけてしまった。

 何であの時、あの人ごみの中で、正確にあの人を見つけられたんだろう。今でも不思議で仕方ない。ただ、私は確信を持っていた。あの後姿は彼だ、って。

 「宮島先生」

声を掛けたのは、殆ど反射だ。そして振り向いた彼は、普段の眼鏡ではなくて、すこし色の濃いサングラスをかけていた。もう夏なのに、私服にまでちゃんと襟があるのが、妙に彼らしかった。

「妙なところで会うな」

その口元が、かすかに、ほんのかすかに、微笑んだように見えた。

 そして私は気づいた。彼が一人ではなかったこと――その二歩くらい先に、髪の長い、華奢な女の人が居た。赤っぽく染めた髪と、黒いシンプルなラインのワンピースが嘘みたいに似合っていて、美人、という感じの人だった。

 それだけなら驚かなかったと思う。先生にだって彼女くらい居るだろう。でも、その女の人の足元には、柔らかいベージュ色の洋服を着た、やっと赤ちゃんじゃなくなったくらいの女の子が、ぴったりくっついていた。

「生徒さん?」

女の人が言った。澄んだ高い声。その時何故か思った。いつかの電話の相手は、この人だったんだなぁ、と――この人が先生の奥さんで、あの子は先生の子供なんだ、と。

「…何、こんなとこでいいお父さんやってるんですか」

口の中が痺れたみたいになってしまって、碌な反応が出来なかった。彼はただ、

「悪かったな」

とだけ言って、奥さんと子供に何か言うと、2人は先に雑踏に消えた。

 「ていうか結婚してたんですか、先生は」

やっと痺れが取れたと思ったら、今度は口が勝手に、妙に滑り良く動きだした。

「まあ、な…」

だけど、この日歯切れが悪かったのは、明らかに、彼の方だった。

「梅崎、お前、志望校変えたらしいな」

それは確かにそうだった。元からの志望校は、現役の時に既にA判定だったので、浪人生活の間に偏差値は順調に上がり、もっと上を狙っても罰は当たらない状況だった。

「あれは俺の母校なんだ」

マトリックスの声が、何となく揺れているように聞こえた。

「極楽じゃないが、悪くない大学だ。頑張れよ」

何かが――絶対に変だった。何かの言い知れない予感をひしひしと感じながら、私は結局は無抵抗で、すぐそこに迫っているそれを、確かめようとした。

「何で、今そんなこと言うんですか」

「実は、夏休み一杯で、あそこを辞めることになって、な」

ゆっくりと、噛み締めるように、彼はそう言った。

「何で。どっか、よそに変わるんですか?先生教えるの上手いから、もっと大手のとこにスカウトされたとか」

「そうじゃなくて、ちょっと別のことを、やることになった」

サングラスの向こうの近眼は、確かに微笑っていたと、今でも信じたい。

「何で、突然そんなことになるんですか。私、高一からずっと先生に教わってきて、当然合格するまで、先生についていくんだと思ってた」

「そうだな…お前だけだな。俺が三年教えて現役合格出来なかったのは」

「あんなの実力じゃないもん」

「莫迦野郎。体調管理と運も実力のうちだ。本番に持っていったものが、全部お前の実力なんだよ。悔しかったら合格しろ」

そう言って、彼は――軽く、私の背を叩いた。

 

 結局それが、まともに彼と喋った最後になった。いや、元々授業以外にこれといって接触は無かったから、夏休み一杯、普通に講師と生徒をやって、それでお終いだ。夏が終ったら、確かに彼は塾から消えていた。

 

 あれから二年――私は無事に彼の後輩になり、希望通り社会学を学ぶ傍らサークル活動に精を出すという、典型的な大学生になった。

 そんな日々の徒然の中、地方から出てきている同級生の部屋で、一緒にレポートを書いたりご飯を食べたり、あれこれしていた時のことだった。金曜日の八時と言えばミュージック・ステーションだというのは、私にとってはどうでもいい話だ。J-POPを聴くのはとっくの昔に止めてしまった。理由は無い。敢えて言うなら飽きたから。

「ねえ志保、SIVAって知ってる?」

部屋の主である友達は音楽好きで、イヤホンを手放さないタイプの子だった。

「名前は聞いたことあるよ。最近ちょっと売れてるバンドだよね」

「ギターの宮島孝史ってさ、うちの卒業生らしいよ」

ちょっと待って、今何て言ったの。そう言いたかったけれど、口が動かなかった。懐かしい名前。

「うちって…」

代わりに口をついたのは、あまりにも間抜けた答え。

「社会学科じゃなくてテッカだって聞いたけど」

テッカとは哲学科のことだ。同窓生にだけ通じるささやかな俗語が、過去と現在を細い糸で繋ぐ。涼しいしたり顔が、懐かしく蘇る。

「もう一人のギターの女の人と結婚してて、子供居るんだって」

そこから先の説明は、もう耳には入ってこなかった。

 振り向くと、ブラウン管テレビのあまり大きくない画面に――黒っぽい服装の、所謂ロックバンドらしい風体の、何人かが映っていた。これがSIVA。今日のゲスト。言われなくてももう分る。その、5人並んだ3人目――見間違える筈なんか絶対無い。先生。

 変わってない、と思った。髪はすこし伸びて茶色くなっていたけど、大幅に形を変えたわけじゃない。着ているのも、明らかにデザイン物になってけど、ダークカラーのスーツだ。何よりも、何があっても動じませんみたいな、無駄な自信と落ち着きに溢れた、静かな表情が――マトリックスと呼ばれて恐れられ、私の受験生活3年半を導いてくれた、あの日のままだった。その隣には、ストレートの長い髪を紅く染めた綺麗な女の人が――あの日のあの女の人が、立っていた。

 とめどなく、涙と笑いがこみ上げてきた。傍目に不気味なのは分りきっていたけど止められなかった。ちょっと別のことって…全然ちょっとじゃないじゃない。塾講師のふりして、貴方は一体何をしていたんですか。何して疲れてたんですか。頑張れとかハッタリでも元気にしてろとか、果てには好きなことやってるうちは死なないとか――あれ全部、自分にいってたんじゃないですか。貴方は今、そこにどれだけの実力を持って立っていますか。

 音楽が流れている筈だった。だけど私の耳には何も届かなかった。ただ、あの日々に彼から貰った言葉だけが、切れ間無く蘇っては押し寄せて、私は押し流されそうになっていた。

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