真夜中にクローディアが起き出したのは、一行を乗せた船がブルエーレに着く前の晩だった。突然跳ね起きて、帰らなければ、などと口走り、外へ駆けてゆくと、甲板の縁に手をかけて、座り込んでしまった。

「オウルが呼んでいるの。オウルが、帰って来いって…私、急いで帰らなければ……」

月明かりに照らされた白い横顔には、不安と恐れが影を落としていた。オウルというのは、クローディアを育てた迷いの森の魔女である。

「用件は言っていなかったのか?」

グレイは、それを夢だとは思わなかった。相手は魔女だし、夢枕にくらい、立っても不思議は無い。それに、クローディアには、目さえ曇っていなければ、事態の本質を掴む力があるように思える。嘘だなどとは、到底思えなかった。

 しかしまずは、この不安を鎮めてやらなければいけない。震える細い肩に手をやって、宥めるように声をかけた。

「この調子なら、明日にはブルエーレに着く。そこから急げば、一週間かからずに迷いの森へ行ける筈だ。不安なのも無理は無いが、今ここで焦っても、何も解決しない。今は眠れ。いいな」

クローディアは、それでも表情を和らげはしなかったが、どうにか頷いて、大人しく部屋に戻っていった。アイシャが心配そうな顔をしてそれについて行く。

 「あんたさぁ…」

残っていたジャミルが、ぼそりと呟くように言った。

「クローディアには優しいんだな。俺たちの相手は、適当にしてるくせに」

批難されている、という感じはしなかった。ジャミルの感情表現は素直だ。文句を言うなら直球で言ってくる。一体今の発言の意図が何なのか、グレイにはよく分らなかった。

「ま、この間から何か様子がおかしいし、気ぃ使ってやってくれよな」

結局ジャミルも、わけのわからないことを言って戻っていった。

 ジャミルとアイシャは、この間の「あの一件」については知らない筈だ。結局あれもうやむやになってしまったが、結論は下さなければいけない筈だ。自分とクローディア。この先、いつまで一緒に旅をする事になるかも分らないのだし、後味の悪い真似はしたくない。しっかり考えた方が良さそうなのは確かだが、どうも何か、微妙な「逃げ」があるのを、グレイは自覚していた。

 

 そしてそれから五日後、一行はどうにか迷いの森に辿り着いた。強行軍だったので、それぞれ疲れは出ているが、クローディアの必死な様子を見ていると、休もうとも言えなかったのだ。クローディアに案内されて入った森は、世評が言うほど複雑な迷路とも思えず、あっという間に、大きな木に寄りそうように建つ、古い小屋が見えてきた。きっとクローディアは、幼い頃からこの森を歩き回って、すべてを知り尽くしているのだろう。或いは彼女なら、魔女の魔法にかからないのかもしれない。

 扉の前に、銀毛の狼が寝そべっていて、クローディアの姿を見とめると、立ち上がって道を譲ってくれた。

 扉を開けるなり、クローディアは、奥の部屋へ駆けていった。ほかの三人も、慌てて追いかける。開け放たれた扉の向こうでは、小柄な老婆がベッドに横たわっていた。クローディアを育てたという、迷いの森の魔女オウル。しかし、そのおどろおどろしい名前に似合わず、強いて気難しさを装っている、という印象が強い。

「何じゃ、大勢連れて来おって、騒々しい…まあ良いわ、突っ立っておらんで、中に入れ」

言われて、アイシャとジャミルが、押し付けあう素振りを見せる。グレイはそんな二人の肩を押して、中に入れた。この魔女は、死期を悟ったのだ。経験則が、そんなことを語っていた。

「クローディア、お前にひとつ、昔話をしてやろうな……」

魔女オウルがゆっくりと語った物語は、凡そ以下のような内容だった。

 今から二十二年前、バファル帝国の皇帝フェル六世に、一粒胤の皇女が生まれた。しかし、その母たる皇后は間もなく死んだ。表向きは産後の肥立ちが悪かったということになっていたが、実際には暗殺だったのだ。犯人の目星はついていたが、証拠が挙がらず、何も出来ないでいるうちに、暗殺者の魔手は、生まれて間もない皇女にまで延ばされた。皇女の先行きを危ぶんだ乳母は、森の魔女を呼び出し、皇后の形見の指輪とともに、皇女を預けた魔女に預けた――

 クローディアは、はしばみ色の瞳を丸くして、それを聞いていた。白くなった唇が、細かく震えている。

「…それが、私なのね……」

「さあ、な」

魔女は、気難しそうな顔に、優しい笑みを浮かべて、枯れ木のような腕を伸ばし、二十二年間育てた娘の長い髪を撫でた。そして手を引き、顔を背けると、溜め息をつくように言った。

「……喋りすぎたわ」

それが、魔女の最後の言葉だった。

 泣き叫ぶかと思った。しかしクローディアは、黙って静かに、肩を震わせた。

「……生きているのだもの、みんないつかは、こうやって土に還るんだから…当たり前のこと、よね――」

しかし、その白い頬を、涙がとめどなく流れては落ちつづける。

 グレイは、そんな姿にかけるべき、どんな言葉も持たなかった。何故なら彼は、物心ついて以来の、天涯孤独の身の上だからだ。喪って悲しいものなど、持ったことがなく、従って喪ったこともない。冒険の中で、利害の一致から同行した者が死んだことはある。後味は悪かったし、運が無かったなと憐れに思うことはあったが、それは決して悲しみではなかった。

 「アイシャ、来い」

突然、ジャミルが、貰い泣きしているアイシャの手を引いて、扉を開けた。

「こいつ、慰めるどころじゃ無さそうだから、頭冷やさせてくるな」

褐色の瞳が、グレイに向かって、何事かを言った。

 そうして部屋の中には、物言わぬ魔女と、黙って泣いているクローディアと、言葉を失ったグレイが残された。何か、言わなければ。そんな気持ちに突き動かされて、グレイはクローディアに歩み寄り、震える肩に手をかけた。

「落ち着いたら、墓を作らないとな」

悩んだ挙句に口をついたのは、そんな言葉だった。クローディアは、黙って頷く。

「……クローディア。クローディア、すまない、俺には、何と言えばいいのか分らないんだが…俺が、居る。決してお前を独りにはしない。ずっと、側に居る、から……」

言いながら、自分でもぎょっとした。しかし、もう後戻りは出来ない。振り向いた、細い体を引き寄せて、抱きしめる。クローディアは、素直に凭れかかってきた。

「…言葉なんか、いいのよ。側に居て。それだけでいいの。それが、私の幸せ――」

それは、不思議な感覚だった。自分の中にあった、不安や恐れや、何某かのどろどろした感情が、クローディアの中にたたえられた透明な悲しみとひとつに溶けて、段々に透き通り、浄化されていくのが分った。この感情、いつまでも腕をほどけないでいるこの気持ちを愛しさと呼ぶならば、恋をしていたのは、クローディアではなくて、まず自分だった。そのことに、今更ながら、グレイは気付いたのだった。

 クローディアが皇帝の娘だと言うならば、この先彼女の身に、何が襲い掛かるか知れたものではない。だが、今自分で言った言葉だけは、限界まで守り抜こうと、グレイはそう、心に決めたのだった。
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