74日・帰り道〜佐恵子

 梅雨の終りの雨の夜だった。仕事の後、食事のお誘いを一次会で切り上げて、猫を拾いに車を回した。行き先は、都内のスタジオ。

「お疲れ様。もう良かったの?1時間くらいならここで待つけど」

儀礼上、訊いてはみたけれど回答は分っている。

「今日はもう、これ以上消耗しちゃいけないから」

明日がゲネプロで、明々後日が本番。その状態で、絶対に無茶なんかしない。

「敦司」

名前を呼んだら、幾つになっても妙に素直な顔をして、こっちを向く。

「ご飯食べた?」

「…いや、まだだけど」

「そう。私、済ませてきちゃったんだけど、家に帰る?途中で何か食べて行く?」

それで、交わされるのはそういう、ごく他愛も無い会話だったりして。

「家に帰る。何か、消化のいいもの食べさせてよ」

そう言うと、敦司は深く息を吐いて、助手席のシートに沈み込んだ。

 絶え間ない雨の音が道路を叩き、跳ね上げられる水音が、ステレオの音を掻き消した。流れていたのは、彼の大好きなコクトー・ツインズで、幻のような歌声が、本当は聞こえる筈なんだけれど、この状態ではノイズの向こうの囁きでしかない。だけど、きっと消したら文句を言われるだろう。助手席の敦司は、時折首をがくん、とさせては、顔を上げる。眠たいなら、家まで寝ていてもいいのに。

「寝てていいのよ」

なんだけど、そう言うと顔を上げてしまうのが、この猫の妙な律儀さだったりする。

「今寝ると、そのまま朝まで寝ちゃって、晩飯を食い損ねる気がする」

「その時は、二食分くらいある、豪勢な朝ご飯を作ってあげるから」

「またそうやって、佐恵は俺を甘やかす気で居るんだ」

苦笑する声の響きが、くっきりとし始める。どうやら目が覚めたらしい。

 車の中は、沈黙、というには雨音が五月蝿い状態で、その向こうから、コクトー・ツインズの甘い響きもかすかに聞こえる。それなりに心地良い空間だった。

「佐恵」

しばらくその、微妙な静かさと五月蝿さの中に浸っていたら、敦司が口を開いた。

7日さ、本当に、来てくれる?」

「何回、同じ事を訊いたら気が済むの。ちゃんと調整したから大丈夫。その日はオフだし、次の日も午後からだから、最後まで付き合うわ」

7日――武道館。私にとっては初めてになる、彼の仕事の現場。

 仕事に関しては、相互不干渉。そういう約束でやってきたので、私はそこに足を踏み入れたこともない。そういうところでそういう目立ち方をするのは本意ではないし、わざわざ土足で出かけて行って、彼のファンの女の子たちを、踏み躙ることもないだろう。そう思ってきたから。

 だから敦司が、どうしても来て欲しいと言い出したのには、驚いた。そして理由を尋ねたら、彼は凄く照れた笑い方をして、こう言った。

「実家に連れて行きたい、みたいな気分」

 今から6年ちょっと前、私たちが出逢った時、彼は、大切な仲間の死に打ちのめされていた。せいぜい1年以内の出来事かと思っていたのだけど、実際には3年以上が経っていた。あわせて10年。その半分以上を、とても近いところで一緒に暮らしていたけれど、その大切な仲間、という人のことは、殆ど話してくれなかった。

 相手のすべてを知っていたい、なんて思うほど、流石にもう若くは無いから、ただそこにある「重み」だけを察して、彼の隣にずっと居た。その「重み」の正体を教えてくれるというならば、私にノーという理由なんかない。まだ知らない顔を、見せてくれると言うならば。興味を失うほどまだ、年を取っているわけでもない。

 だから今はせめて、彼がそこに文句のつけようが無い万全の体勢で臨めるように、ちょっとした世話だけ焼いていればいい。

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