630日・バックステージ〜忍

 素敵な洋服を着て素敵になるのは、簡単ではないけど、自分に似合うものを選びさえすれば、極端に難しいことではない。だけど、何処にでもあるものを何気なく着て、凄く凄く素敵に見えてしまうのは、それはとても稀有なことだと思う。

 だから、あすかさんは超一流のモデルさんなんだな、と思った。

 ゆるやかなウェーブのかかった栗色の髪の毛が、白と藍色のブラウスの肩を、音も無く零れ落ちる。その下に見え隠れする頬や首筋の、輝くような真珠色。すらりと伸びた手首の、壊れそうに華奢な線。指にはマニキュアは無かったけど、左手薬指のフルエタニティの指輪が、上品な存在感でそこに在った。真っ白な細いパンツと、足にぴったりフィットする、一見細いけどとっても歩き易そうなバックストラップのパンプス。それが描き出す、人魚みたいな脚のライン。私よりも7歳も年上のその人の、何から何まで様になって、何もしていないのに内側から柔らかい光を投げかけるみたいな綺麗さに、思わず見蕩れてしまった。

 「忍ちゃん?」

呼びかけてくれる声も柔らかい。それは、私の人生がこの人のそれと交差した、あの頃から変わらない。

 変わったのは私の立場だ。デザイン事務所の雑用バイトだった私は、結婚しママになり、ミュージシャンとして武道館に立てるようになり――あの頃私のおなかに居た小さな子は、すらりと伸びた小鹿みたいな脚で駆け回るようになって、今は多分、廊下で踊っている筈だ。

「じゃあこれ、佐藤さんから、差し入れだから、皆さんでいただいて」

あすかさんはそう言って、千疋屋の紙袋を渡してくれた。

「甘いもの苦手な子が居るって聞いたけど、果物は平気かしら」

袋の中には、酔っ払ってしまいそうに芳醇な香りをふりまく、大粒の巨峰が入っていた。

「大丈夫だと思います。先生に、よろしくお伝えください」

この際、悠太が良くても悪くても、こう言うしかないわけだし、お菓子系じゃなかったらいけるとは思う。お返事はさておきとして、とりあえず私は、あすかさんに椅子を勧めた。で、素敵な人に座って貰うと、たかがうちの事務所の応接室の、いつ買ったかよく分らないソファでも綺麗に見えちゃうから、美人って恐ろしい。

 いやはや、それにしても、話にはよく聞く「SK」のデザイナーが佐藤先生だったなんて驚いた。でも、あすかさんをお使いに寄越すなんて、その意味不明の根性の太さは、流石、先生だとは思う。全然変わってない。

「忙しいんでしょう?時間を取ってしまって、ごめんなさいね」

いえいえ、それは断然、こっちの台詞ですから。今日はリハーサルは休みで、事務所で打ち合わせだけだし。そう言ったらあすかさんは、可笑しくて仕方ない、という感じで、嬉しそうに笑ってくれた。あの頃からしたら、格段に穏やかに微笑むようになった、と思う。

「貴女って、相変わらず心に壁を作らないのね。そういう所が変わってないと、安心する」

「作り方を知らないから、あけすけになっちゃうんですよ」

そのやり取りは、あの頃にも何度か繰り返した。あすかさんは、私のこの感じを何故か気に入ってくれたらしくて、何人も居るスタッフの中でも、私のことを特別に可愛がってくれた。

 交わされたのは、ささやかな近況報告。だけど、こうやって誰かの人生が自分のそれと交差する度に、私は色んなことを考えてしまう。世の中の狭さ、とか、人生の不思議、とか。

「考えてみたら、おかしな縁よね。忍ちゃんがあの頃、敦司に会ってさえいれば、全部繋がっていたのに。そんなこと知らないままで、1度は切れてしまったものが、またこうして巡り合って」

どうやらあすかさんも、同じ事を考えているみたいだった。私はあの頃、よく衣装を出していたD.M.C.というバンドが敦司兄と恭さんのバンドだっていうことを知らなかったし、何の偶然か知らないけど、顔をあわせることも無かった。なのに2人は、びっくりするくらい近いところに居たりしたんだ、実は、あの頃も。

「ホントに、笑っちゃいますよね。私もまさか、敦司兄があんなに近くに居て、しかもあすかさんとお付き合いしてるなんて、想像もしなかったし。世間は狭すぎですよ」

その狭い世間で――素敵なことがたくさん起こる。こんな風にあすかさんとお茶が出来る日が来るなんて、想像もしていなかった。

 そうしたら、扉をノックする音がして、私が何を言うよりも先に、和葉が入ってきた。勝手に開けちゃ駄目でしょう、と叱ると、あすかさんが、気にしないでと言ってくれた。

「良かったら、ちょっと座っていったら。お名前は?」

「みやじまかずは、6さいです」

「じゃあ、来年で1年生ね。私の名前は、河村あすか。今度のお誕生日で、35歳」

衒いでも居直りでもなくて、素直に自分の年が言える女性は美しい。そういう人は、どんな姿であっても、その年齢の自分を目一杯生きている。私もそうでありたいし、そのように頑張っている積りだし、出来ればこの子にも、そうやって生きて欲しい、と思う。気の早い話だけど。

 それで、和葉が何をしに来たかと言えば、廊下でやたらめったらに踊っていたら、クルクルッと二回回るコツを、会得してしまったらしい。それで見せに来たらしい。

「ほらママ、今、ちゃんと2回まわったでしょ?!」

白い頬の裏側に、真っ赤な血がいっぱい上って、愛らしいピンク色に染まっている。そういう顔で、やり始めたらこれしか出来ません、となってしまい、心の底からそれを楽しんでいる――そういうところを見ると、この子は顔はパパ似だけど、明らかに私の娘だなぁ、と思う。

「綺麗に回れたわね。今のは、お花かな?」

「うーんとね、ひまわりのお花!」

あすかさんが水を向けたので、和葉は思いっきり調子に乗った。

「それじゃ今度は、別のお花をやってくれるかな。和葉ちゃんは何が好き?」

「ピンクいろのバラ!」

そしてまた、しばらく止まらなくなってしまった。あすかさんは飽きもしないで、いちいちそれに手を叩き、満面の笑顔で見守ってくれた。

 何十回目かで、やっと和葉が息切れしたので、今しかないと思って、肩に手を添える。

「はい、お疲れ様。それ以上やったら、頭が痛くなるでしょう。梨佳さんのところに行って、ちょっと休んでらっしゃい。パパには、おうちに帰ったら見せてあげようね」

「はーい」

好きなだけ踊らせて貰ったので、和葉はとても素直に引き下がった。後のことは、梨佳さんこと、マネージャー笹岡に任せよう。それとパパには近寄らせないこと。今会議中だから、あの子が邪魔したら、間違いなく特大の雷が落ちるだろうから。

 「すみませんでした、夢中になると、そればっかりしか出来ない子なんです」

和葉を追い出してから、私が頭を下げると、あすかさんは笑ってかぶりを振った。

「気にしないで、子供は大好きだから。今の子が、あの時の赤ちゃんよね?」

「…はい」

あすかさんが佐藤先生の事務所に出入りするようになったのは、ちょうど和葉が私のところにやってきた頃だ。だからつい最近まで、あすかさんの中では、私はずーっと妊婦さんだった。

6年経つと、あんなに大きくなるんだ――」

その時、あすかさんの澄み切った瞳に、初めて暗い影が落ちたのを、私は見なかったフリをした。

 そのままでは何か別のことを言ってしまいそうだったので、強制的に別の話を始めてみる。

「何ていうか…やっぱり巡り合わせって変ですよね。俊兄が居なかったら、私は絶対、こんなに本腰を入れて音楽をやりはしなかったし、こういう音楽性の人間にもならなかった。だけど、逆にまだ俊兄が居たら、私はプロのミュージシャンにはならなかったと思うし、あの子のパパにも会わなかった。そう思うと、凄くヘンな感じがします」

「そうね――私も、その彼がまだ居たら、あの子とこういうことには、なってないかもしれない」

そう言ったあすかさんの面には、もう影は浮かんでいなかった。だけど多分、私の魂胆なんかお見通しだ。そういう綺麗な目で、何も言わずに微笑んでくれる。優しい人。

「あの子って、敦司兄のことですか?」

「そうよ。今度また、時間の取れる時にゆっくり話しましょう」

そう言って立ち上がる、迷いの無い姿勢に――力みの無い立ち姿に、惚れ惚れしてしまう。

 あの頃から流れた時間の中で、この人が何をしてきたのか、私はまだ知らないけれど。でもやっぱり、それは美しく流れた時間だったんだろうと思う。私に流れた10年が、基本的にはそうであったように。

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