心拍も脳波も滅茶苦茶だったから、何事があったのかと思った、とサッシャは言った。そして、この影響がサイコミュにどう出るか分からないが、ともかく戦闘中でなくてまだしも幸いだった、と。鎮静剤を打たれたイリアが、強制的に眠りに落ちた後のことだ。

 その通りだと思ってしまう時点で、自分にこの人のことを何か言う権利など無いのだろうなと、レオンハートは思う。

 <ビルキス>に引きずり戻した<ラキシス>のコクピットを強制開放すると、小さな水滴がひとつ、玉になって零れ出てきた。計器類に付着すれば故障の原因になるから、本来、速やかに排気システムが回収すべきものだ。どうやらイリアは、直前にヘルメットを外したらしい。その顔にも髪にも、幾つもの細かな水滴が――すべて、彼女の流した涙が付着していた。

 レオンハートにもトウヤにも、経験があるから分かる。パイロットスーツのヘルメットも、モビルスーツのコクピットも、排気に関しては優秀だ。腹部に衝撃を受けて吐瀉物をまき散らした時も、濡れそぼつほど汗をかいた時も、それで溺れることは無く、いつの間にかその殆どが回収されていた。

 一体どれほどの涙を、この少女は流したのだろう。この、笑うことが苦手で、幼い感情しか持たない少女が。

 そして、その涙の源には、どれほどの感情があったのだろう。例え、上手く表せないものだとしても――いや、これだけの涙が流されていれば、もう何の説明も要るまい。

「記憶操作が出来たら、楽なんですけどね」

 出力されてきたデータに目を落としながら、サッシャが溜息をつく。

「…出来るんですか、そんなことが」

 思わず、レオンハートは問い返す。別にイリアにそれを施して欲しいとは思わないが、言葉通り単純に、気になったからだ。

「昔……U.C.0080年代頃に、人工的にニュータイプを作る研究をしていた頃、試験的に行われていたようです。記憶操作それ自体は、上手くいっていたようですよ、ただ…」

 そこでサッシャは、更に重い溜息をつく。

「…結果的に、その操作された記憶がトラウマになって、使い物にならなくなったようですね。その、ニュータイプとしてというより、人間として――」

 嫌な寒さが、レオンハートの背筋をなぞる。今更ながらに、サッシャが――いや、自分たちがしていることのおぞましさを思い出す。

「イリアには、記憶操作や薬物投与、催眠療法の一切が禁止されています。私たちがしていいのは、通常の医療行為と、彼女が安定的にサイコミュを運用出来るように、心身の状態を整えること。それだけなんですよ」

 けれどもサッシャのその言葉からは「どうしてそれだけしか出来ないのか」という苛立たしさは微塵も聞き取れない。

「もちろん、そんなもの使わなくても、あの子は立派なパイロットですけどね」

 そして、取り繕うようにそんなことを付け加える。

 それは、そんなものなど使う必要は無いという、彼女の自負なのだろう。

「ただ、こんな時は――そんな記憶、消してしまえたら、と思いますよ」

 そう言いたくなる気持ちは、理解出来る。このままあの涙の中に沈んでいたら、今度はイリアが殺される。死者とは適切に距離を保つこと。それはレオンハート自身も己に念じてきた。恐らくトウヤもそうだ。回数を経て、妙にこなれた感すらある。

 だが――今でも、どうしても、父や母や姉の最期について、忘れてしまえたらとは思えない。思い出すだけで息が詰まりそうになっても、その夜、押し寄せる悪夢にのたうち回るのが分かっていても、焼け付くようなあの怒りが、文字通り世界にただ独り残された絶望が甦るとしても、時には彼らのことを思う。思わずにはいられない。

 「今回は、これまで」と思った瞬間に、その感情をほぼシャットアウト出来るのは、レオンハートの特技なのだが、それはもしかしたら、家族の記憶を捨てられないからかもしれない。それを抱え続けたまま生きるために、いつの間にか身に付いたもの、かもしれないのだ。

 だが、それをここでサッシャに言ったところで、何が解決するわけでもなく、話がおかしな方向に転がるのがおちだ。

 結局レオンハートがしたことと言えば、何を、と目的語はつけずに「宜しくお願いします」と曖昧な社交辞令だけを口にして、その場を辞したことだけだった。

 その帰り道、ずっと黙っていたトウヤが、レオンハートの肩をぽんぽんと叩いた。

「流石に、今回は怒らねーな」

「何がだ」

「泣くなってさ。縁あって仲良くなった奴が目の前でドカン、跡形もない…って、珍しい設定でもないからさ。ちょっと前までの貴様なら、確実に怒鳴ってたよな。甘ったれんなって」

 そう思う。その碌でもない現実こそが、軍人である彼らの伍していくべきものなのだ。特に、士官として前線に出るならば。

「…未成年の、子供だ」

 あの涙にほだされるのは、本意ではない。だからレオンハートは、偽悪的にそんなことを口にする。けれどもトウヤは、その顔に馴染んだ人懐こい笑顔で、こう返す。

「多少、変わったと思うよ、貴様は。良いか悪いか知らねーけど」

 だろうと思う。<ビルキス>に着任したばかりの彼なら、問答無用で叱り飛ばしていた筈だ。何故、こんな風になってしまったのかは、自分でもさっぱり分からないが。

「…とりあえず、イリアのことは少佐殿がケアして下さるそうだ。ならば、俺たちが気を揉む必要は無い」

「つうか、揉むだけ無駄、だな」

 カティアが通信を入れてきたのは、<ビルキス>に戻るより先だった。

「とりあえず今日はイリアを休ませて、そこから先はすこし私が預かるよ」と。

 シャラはカティアの教え子だったと言う。前線に居る時間が長い分だけ、自分たちよりは多くの死を見ているであろうカティアだが、情は深い方だから、辛かったに違いない。けれども、その声は決して揺るがず、いつものように穏やかだった。

 カティアはレオンハートの母とは似ても似つかないが、その落ち着きと温かさは、とても母親らしいものに思われた。

 イリアの母――本人たちがどう認識していようとサッシャだと思うのだが――は、彼女が目覚めたら、何を言うのだろう。どういう顔をして、彼女を見るのだろう。ふと気になりはしたが、どうしても想像出来ない。

「とりあえず、仕事、だ」

 レオンハートはそう言って、袋小路に入りかける思考を遮断する。それを聞いたトウヤが苦笑する。日常業務はそれなりにあるものの、決して忙しいわけではない。

 それでも、何かしていないと、あの、素直であけすけで、剝き出しの痛みを曝した泣き声が、また聞こえそうだったから。とりあえず二人は、仕事を作ることにした。

 

 目を覚ますと、酷く頭痛がした。瞼の辺りが腫れぼったくて、視界がいまひとつ、クリアにならない。とりあえず顔を洗わなければと鏡を見たら、これが自分だとは分からないくらいに、目の周りが腫れあがっていた。

 一体、何が起こったんだろう。とりあえずサッシャに報告して、原因を調べて貰わなければ。

 そう思ったイリアは、人は泣きすぎるとそんな顔になる、ということを知らなかった。

 けれども、身繕いをして部屋を出ようとしたその瞬間に、ドアが開け放たれて、カティアとサッシャが姿を現す。

「おはよう、イリア」

 そう言うカティアは、一分の隙も無く、いつもの彼女だった。きっちりとシニョンに結ったプラチナブロンド、丁寧な化粧、紅い口紅と仄かなガーデニアの香り。そして、穏やかでつけ入る隙のない笑顔。

「ちょっと手伝って欲しいことがあるんだ。一緒においで」

 その前にすることがある、とイリアは言おうとしたが、何故かこの時は、カティアについて行きたい、と思ってしまった。心身の違和感は、どんな些細なことでもすぐにサッシャに報告すると、物心ついた時から叩き込まれているのに。そのサッシャが、目の前に一緒に居るのに。

「…上官の指示です。行きなさい」

 そのサッシャは、この場で独りだけ、酷く居心地の悪そうな様子をしていたが、イリアが視線を泳がせると、それを捉えて、不器用に微笑んだ。その不器用さは、もしかしたら、イリア自身の現在のそれと、大差ないかもしれない。

「というわけで、お許しは出ているんだけど」

 カティアはイリアに対しては、滅多に命令形を使わない。ただ、依頼形だろうが提案形だろうが、不思議と素直に言うことを聞いてしまう雰囲気が、間違いなくあるのだけれど。

 そしてイリアには、サッシャの許可が下りているという時点で、事実上、拒否する選択肢が思い浮かばない。ただ、行きたくないとだけ思い、そのことが自分でもとても意外だった。

 それでもやはり「嫌です」とは言えなくて、黙ってついて行った先は、居住ブロックの士官区域だった。早い話が、個室が並ぶ一角である。

 カティアは黙ってその中の一室のドアを開け、入りなさいと手ぶりで招く。

 入ってみると、そこはイリアが下のブロックで与えられているものと何ら変わりの無い部屋だった。物が少ないのは、転属の多い軍人なら誰でもそうだし、そもそも私物の持ち込み自体、容量の制限がある。

 それでも、イリアは気付いてしまった。入って正面の壁に、テープで貼り付けられた写真が数枚。見知らぬ中年の男女と一緒に笑っていたのは、よく見知った女性――シャラ。

「ここは、シャラの……」

「そうだ」

 そしてカティアは、小さな段ボール箱を指さす。

「遺品の整理をするから、手伝ってくれないかな。本来これは同じ小隊の人間がするんだけど、一応、女性だからね。それに、君も私も、彼女とは縁があった」

 シャラはよく、カティアが士官学校の教官だった時代のことを話してくれた。今と変わらず、穏やかな笑顔でとんでもない要求をしてくること。よく学生に手料理を振る舞ってくれたこと。せがんで見せて貰った愛娘の写真がとても可愛らしかったこと。家族写真を撮ると、彼女も案外、普通の母親に見えること。

「…シャラは、貴女のことを好きだったと思います」

 自分が言わなくても、絶対にカティアは分かっている。でも、他に何を言ったらいいか見当もつかない。

「そうだね。私も彼女が好きだった。良い子で、良いパイロットで…だから、私があの子を、この艦に呼んだ」

 パイロットだから、何処に配属されたとしても、危険な任務をこなしていただろう。だが、こんなに早く、跡形もなく消えてしまうなんて、あっただろうか。つい、そんな意味のないことを考えてしまう。けれどもイリアの翠色の瞳に映るカティアは、微塵も揺らがず、穏やかな笑顔のままだ。

「前に、レオンハートに言われたことがあります。心に鍵のかかる箱を作れ、死んだ相手が良い人だったことは、忘れないでそこに入れておけばいいけど、不必要な時に開けるな、って」

 正直、その時レオンハートが言った意味は皆目分からなかったし、今も分からない。ただ、もしそんな都合の良いものがあるなら、今ほど欲しい時は無い。

 カティアはそのブルーグレーの瞳を薄っすらと細めて、微笑う。

「彼が、そんなことを言ったのか。イリアは、彼の生い立ちは知っているのかな?」

「…いえ」

「彼はね、十二歳の時に、ご両親とお姉さんを…家族全員を、ほぼ同時に亡くしているんだよ」

 家族――イリアには最初から居なかったもの。でも、トウヤやカティアが、今もとても大事にしていることは、見て知っている。シャラが貼っていた写真も、恐らく彼女の家族のものなのだろう。

「上手い例えだと思うよ。彼には、忘れたくない、大切な人たちが居る……でも、思い出に引きずられていると、生きていけない。だから、そういう話し方をしたんじゃないかな」

 言いながら、カティアはデスクの引き出しを開き、中のものを検めると、使いかけのファンデーションやマスカラを段ボール箱に入れ始めた。

「手伝って」

 言われて引き出しの中を見ると、そこには幾つも、見覚えがあるものが入っている。一緒に買い物に行った時に買い込んだリップスティック。短いポニーテールを留めていたバレッタやヘアゴム。整髪用のスプレー。他愛もないものばかりだが、すべてが生々しく、つい昨日までそこに生きていた人の痕跡を語っている。

「彼女が生きていたことを、忘れたくないだろう――?」

 問われるだけで、また涙が溢れてしまう。感情が制御出来ない。

「ザバッシュ君が言ったようにね、忘れる必要は無い。というか、寧ろ、覚えていて欲しいね。シャラ・カディッハという、とても良い人間が居たことと、彼女と友達だったということを」

 そしてカティアは、明るく澄んだ瞳で、真っ直ぐにイリアを見据える。

「だから、覚えているためには、君は生きなさい。私が言えることはそれだけだ。君が消えてしまったら、カディッハが生きた痕跡もひとつ、一緒に消えてしまうんだから」

 女性のものとしては大きな掌が、栗色の髪を撫でる。

「だから、とりあえず今日まで、泣いてていいよ」

 言われるまでもなく、イリアは嗚咽を堪えられなかった。明日になれば泣かずに済むなんて、とても約束出来そうもない。そうも思った。

 何よりも、明日からはもう、例え涙が止まらなくても、それを拭って、任務に就かなければいけないのだ。そう言われたことも、イリアには分かった。どんなに辛くても、何も放り出してはいけないし、耐えなければいけない。カティアの言葉は、とても優しいけれど、同じくらい厳しいことでもあったのだ。

 だが――生きなさい、と言われた言葉だけは、心の中で、静かにこだまを続けた。

 

 レオンハートから見る限り、それ以降のイリアは、静かだった。まるで、出逢った当初に戻ったかのように、表情を殺し、声の抑揚を無くして、言われたことだけを忠実にこなして――サイコミュの同調率も、万全ではないが、ぎりぎり実戦投入出来る数値に戻したし、シュミレーションの成績も悪くない。食欲は無さそうだが、時々吐きそうになりながらも、毎食どうにか食べている。

 まるで、いつかの誰かのようだと、レオンハートは思った。

 他でもない、宇宙に上がってきたばかりの頃の自分は、傍目に見ると、恐らくこのような顔をしていたのだろう。むっつりとして、言葉少なく、愛想悪く、そのくせ妙に目端が利いて、勤勉に動く――要するに、可愛げが無い。だが、叱って直させる箇所も特に無く、大人からすれば業腹な子供だったことだろう。本人はただ、見れば動けなくなるものを見ないように必死になって、毎日をやり過ごそうとしていただけなのに。

 トウヤはそんなイリアにも、まるで何事も無かったかのように話しかける。食欲が無いなら貰ってやると言って食事のトレーにスプーンを突っ込み、シュミレーションの後にはよくやったと言ってタオルを投げつける。おはようもお疲れ様も、声の響きは明るい。

 それもそれで、きっと正しいのだと、レオンハートは思う。彼はイリアに合わせようとしているのだ。心の中の箱に蓋をしたのなら、もう本当に、今までと変わりなかったこととして行動する。それを重ねているうちに、いつの間にか傷が癒えるか、傷があるのが当たり前になるかして、楽に息が出来る自分に気付く日が来るのだから。

 ならば自分もそうすればいいと思うのに――どうしても意識過剰になり、イリアに声をかけられない自分を、レオンハートは自覚していた。

 そんな、ぎこちない日々が何日か続くうちに、母港<アビガイル>への帰着予定日が近づいてきた。戻れば戻ったで、事務仕事もあるし、ドック入りしないと出来ない整備の類もあるから、そう暇ではない。まして<ビルキス>モビルスーツ隊の場合は、隊長であるカティアが<アビガイル>に居る間は基本的に不在だ。夫子持ちである彼女は、家族の待つ家に帰るために、ここですべての休暇を纏めて取得する。それが、育児のためにパイロット徽章を自主返納し、飛ぶのをやめた筈だった彼女が、前線に戻る時の条件だったのだから。

 その分のカヴァーは、副長であるラガード大尉が主として担い、レオンハートたち各小隊長がサポートする格好になる。

 だから、忙しくなるなと思いながらスケジュールを確認していたレオンハートの端末に、奇妙な通知が送信されてきた。休暇取得命令だ。帰港翌日から二日間。何かの間違いかと思って何度も確認したが、正式にカティアから発令されて、ハーヴィ艦長の承認を得たものだった。

 何を考えているのかとカティアを問い詰めると、相変わらずの穏やかな笑みを紅い唇に佩いて、返される。

「私の送り迎えを頼みたいから」と。

 そのくらいなら、半分仕事のようなものだから、合間にでも片付ける。絶対にこれが本音ではない筈だ。

「事務仕事のことなら、大丈夫。カトリオン中尉が、快く引き受けてくれたよ。だから心配ない」

 こともなげに言うカティアの白い指が、軽やかにキーボードの上を舞い踊る。帰港するまでに片付けなければならない事務仕事が、色々あるのだろう。

 それでも、レオンハートがまだ、承服しかねると明記された仏頂面で居るのを横目で見ると、やれやれと言いたげに、唇をすこし、緩める。

「正直に言うとね、君はイリアのおまけ。あの子…頑張ってるけど、かなり無理をしているだろう? ちょっと一晩、我が家で預かって、休ませるから」

 イリアを休ませてくれると言うなら、それは是非、お願いしたい。あれを見続けるのは流石に辛いし、かと言って自分やトウヤでは駄目なのだ。

 だが――それと、自分が休みを取ることには、何の関りがあると言うのか。

「細かいことは、来れば分かるよ」

 カティアはそれを最後にモニターに視線を戻して、何の説明も加えてくれなかった。

 

 こうしてレオンハートがもやもやとしているうちに、<ビルキス>は無事、母港アビガイルに帰還した。艦そのものが大規模な修理を行ったばかりで、その間にモビルスーツたちも一式オーバーホールされたから、ここに居る間でなければ出来ないことは、決して多くはない。普段の帰港であれば、乗員たちに休養を与える目的もあるが、それも<ビルキス>の修理中に長めの休暇を取得した乗員が多い。

 勢い、今回の帰港は一週間と短めで、<アビガイル>に自宅を構える乗員たちが割を食う格好にはなった。

 それでも彼らは、帰港当日にはいそいそと事務処理を済ませて、翌日には各々、自宅に戻っていく。

 その中でもやはり、カティアが艦を離れられる時間は、遅い。レオンハートはその日、一応朝から休暇扱いではあったが、他にすることがあるわけでなし、トウヤの事務処理に不安もあったので、結局は仕事をしながら、カティアが指定した、1600時を待っていた。

 時間になり、指定された場所にエレカを回すと、そこにはまだカティアの姿は無かったが、ボストンバッグとハロを抱えたイリアが先に来ていた。カティアからの指定なのだろう、ベージュのワンピースにグレーのパーカーという、地味な私服姿だ。

「…お疲れ様です」

 相変わらずの無表情。助手席を示すとエレカに乗り込んでくるが、挨拶をする声も細くて、抑揚が無い。そんな具合だから、地味な私服が更にくすんで、喪服か何かに見えてしまう。

 そこでレオンハートは、はたと思い当たる。

 イリアの私服姿は殆ど見たことが無いが、恐らく最初は、殆ど持っていなかった筈だ。何故なら彼女には、それを着るべき「私生活」という時間が存在しなかったのだから。

 今、彼女が着ている洋服は、地味な色で形もシンプルだが、それなりに垢抜けたラインではあり、恐らくごく最近の形――疑いも無く、シャラと一緒に買いに行ったものだ。

 私服で来なさい、とカティアは言ったのだろう。だが、今のイリアにとって、それが入ったケースを開けること自体、非常に辛かったのではないだろうか。出来れば何も見たくなかったのではないか。

 そう、思いはしたが、どう声をかけていいか分からないままに、重苦しい沈黙が降り積もる。いい加減、それで息苦しくなってきたところで、カティアが小走りにやってくるのが見えた。

「ぎりぎり、1600時でいいかな」

 確かに時計は、1600時0分52秒という数字を示していた。

 送ってくれ、とカティアは言ったが、コロニー内を走るエレカは、基本的に自動運転だ。ナビゲーション画面で目的地の住所を入力すれば、あとはハンドルに手を添えているだけで目的地に到着出来る。ドライバーが何かしなければいけないのは、トラブルが発生した時くらいだ。

 加えて、やはり何かあった時には駆け付けなければいけない立場であるから、カティアの自宅は港からほど近く、五分とかからなかった。

 士官級で家族持ちの人間に支給される、戸建ての官舎が立ち並ぶその区画は、GPS無しで行けば、確実に迷う。建物はすべて同じ真四角で、不気味なほど個性が無い――これは、隅から隅まですべてが工業製品であるコロニーという世界では、実はごく普通のことなのだが、レオンハートには未だに、若干の違和感を覚える。

 その家の玄関には、母親から連絡を受けていたのだろう、五歳だという小さな女の子が立っていた。母親とは違って、髪も瞳も黒いが、顔立ちは悪くないような気がする。

「ママ!」

 満面の笑みを浮かべて、転げそうになりながら走ってくる愛娘を、カティアは両手を広げて抱きとめる。

「ただいま、リタ。待っていてくれて、ありがとう」

 カティアの笑顔はいつでも柔らかいけれど、やはり娘をその手に抱く時は別格で、蕩けそう、という言葉は恐らく、ああいう表情を形容するためにあるのだ、とレオンハートは思った。子供が居る、と言われた時は、随分想像の埒外なことを言われた気がしていたが、こうして目の当たりにすると、目の前の母娘以上に自然なものは無いようにも思える。

 とりあえず、再会の邪魔をするのも何なので、カティアの荷物を下ろし、ついでにイリアも下車させようとした。

 そこに、す、と手が伸びてきて、カティアの鞄を持ち上げる。

「君が、ザバッシュ中尉か」

 そう言ったのは、東アジア系と言えばいいのだろうか、ごくスタンダードな黄色人種だが、その割には長身で、涼し気な容貌をした男性だった。恐らくこれが、グェン大尉が言っていたカティアの夫だろう。

「ファーレン大尉でありますか」

 階級が上の人間に出会うと、反射的に背筋が伸びてしまうのは、軍人の職業病だ。レオンハートのように四角四面な人間は特に。

「今は、予備役だから。肩肘を張らなくていいよ」

 そう言って穏やかに微笑む横顔が、絶妙にカティアの印象と重なる。その落ち着きと柔らかさは、間違いなく同種の空気で、この二人が夫婦なのだ、ということを教えてくれる。

「ジャッド」

 ファーストネームを呼ぶ声。いつの間にかそこには、娘を抱いたカティアが立っていた。三人並ぶと、もうこれは似つかわしい家族にしか見えないから、不思議なものだ。いや、上手くいっている家庭というのは、案外そうしたものなのか。自分の生まれ育った場所がどうだったか、レオンハートはもう、思い出せないけれど。


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