その時抱いた「好き」は、真っ白な感情だったのだと思う。記憶には無いけれど、幼い子供が親を慕うような、打算も理由も無い感情。

 目が覚めた瞬間、自分の頭の中に、何も無いことに気付いてしまったあの日。空っぽの脳裏に、「誰か」と呼ぶ声が聞こえた。だから行ってみた。

 そこで、彼女に逢った。

 マリー・パーファシー。自分以上に多くを失って、動くことも、喋ることも、泣くこと笑うことすら出来なかった少女。それなのに、たったひとつ自由に使えた脳量子波で、誰かを探し続けていた。誰とも知れない誰かを。

 その呼びかけに応えたのは、名前を奪われた少年。最初はただ、珍しいものを見る目で、少女を見た。樹脂のカプセルに覆われて、金色の瞳を瞬きもしない。その様子が、奇異に映ったから。

 少女は少年に名前をつける。アレルヤ――神を讃えよ。その手に何も持たない二人が、それでも出逢えた喜びのために。

 こうして二人の人生は始まり、その喜びが、真っ白な「好き」になった。

 

 一体何時、その気持ちが変質したのだろう。薄闇の向こうに白い寝顔を見透かしながら、アレルヤはぼんやりと考えている。

 少なくとも、研究所を脱走するまでは、最初と同じ気持ちを抱いていたように思う。

 それからの逃亡生活、そしてソレスタル・ビーイングのガンダムマイスターとしての日々の中では、マリーの存在は過去のものになった。時折思い出すことはあっても、二度と手が届かないと思っていた。

 ところが二人は、生きて、戦場で再会する。ただしその時、マリーはすべてを忘れていた。ソーマ・ピーリスを名乗り、ソレスタル・ビーイング討伐に執念を抱く超兵。最初の印象はそんなものだ。もし、もっと間近に、例えばセルゲイ・スミルノフ大佐の目線で見ていたなら、案外その性格がマリー・パーファシーと変わらないと気付いたのかもしれないが。

 ソーマがマリーだと気が付いたその時は、負傷し、大破した機体の中で、あまり多くを考える余裕は無かった。ただ、突きつけられた現実に衝撃を受けて、呆然としていたような気がする。

 再びの邂逅――彼女が何も覚えていないと知る。超兵機関のやりそうなことだと思った。

 けれど、彼女が生きていてくれたことが嬉しくて、また出逢えたことが嬉しくて、具体的な方法はさておき、彼女を助けなければという思いで、頭が一杯になった。その時点で、彼女が自分の何なのか、考える余裕は無かった。

 そして、いざこの腕に彼女を抱き止めた瞬間――恐らく、何かが決定的に変わった。

 彼女が自分を取り戻したのは、その直前だ。ああ、やっと思い出してくれた、という安堵感がこみ上げて、涙が出そうになった。二度と離さないと思った。でもそれは、二人が幼かった頃、もしそう出来たなら、手でも繋いで思ったであろうこととは違う。

 初めて触れる彼女は、見た目よりも更に華奢で、柔らかくて、良い匂いがした。どくん、心臓が鳴った音。体温が上がる感覚。頬に血が上がる、あの熱さ。よく覚えている。そしてとりあえず、そんなことをしている場合じゃないからと、テントを張りに逃げた。

 降り始めた雨の中で作業をしながら、それこそ自分に冷や水を浴びせるようなことばかり考えたと思う。ここまでやっておきながら、そもそも自分は何の資格があって彼女をこんな所に連れてきてしまったのか、とか。血塗れの手で彼女に触れてはいけないとか。

 それなのに彼女は、目を覚ますと、静かに微笑みかけてくれた。

「居てくれるだけでいいのよ」

 それを言うのは僕だと、言おうとした。少年の日の、あの真っ白な喜びのままに。でも言えなかった。自分が、それ以上を求め始めているのを、自覚していたから。

 あれから、あまりにも多くの紆余曲折があり、思い知らされることも色々あった。抱きしめて離さないだけが能ではない。時には手を離して、すこし遠くから見ていることが必要な時もある。そんな、莫迦みたいに当たり前のことを、後から学んだりもした。そして随分長い時間を、二人で一緒に過ごしてきた。

 

 閉ざされていた瞼が軽く震えて、金色の瞳が薄っすらと開かれる。

「…起きていたの?」

 掠れた声には、疲れが滲んでいる。

「いや…ちょっと、目が覚めたんだけど、起こしちゃったかな?」

「寝苦しくて――」

 白い額に貼りついた銀色の髪を払って、寝汗を拭う。微熱があるようだ。

「何か飲むかい?」

「…でも、また吐いてしまうんじゃないかと思うの」

 微熱、倦怠、慢性的な吐き気――典型的な悪阻症状だそうだ。調べてみれば、決して重症ではないようなのだが、恐らくマリーには、途轍もなく辛いに違いない。

 要するに、超兵は風邪をひかない。免疫力も抵抗力も強化されているから、基本的に病気というものにならないのだ。だから、熱を出したことも無ければ、外から衝撃を受ける以外の理由で嘔吐したことも無い。だるい、という言葉の本当の意味が分からない。それで長年生きてきて、いきなり全部を初体験するとは、それはもう、悪い冗談でしかないだろう。正直、アレルヤには見当すらつかないが、全力で願い下げたいことだけは確かだ。

 悪阻がある、つまり、マリーの中には新しい命が宿っていて、育ちつつある状態だということ。その父親が自分であるということ。まさか、こんなことがあるとは思ってもみなかった。罪人だからという以前に、超兵だから。そういう、戦闘に必要無い機能が生きているとは、思ってもみなかった。

「脱水になるといけないから、様子を見ながら、何か少しだけでも飲んだら?」

 愛おしいと思う気持ちに変わりは無いけれど、心配事が増えた分だけ、戸惑うことも多くなった。

「…冷凍ストロベリー」

 ぽそりと、マリーが言った。果物とか、冷たいものは喉を通り易いと聞いて、数日前に買い置きしたものが、確かにある。

「それなら食べられそう?いいよ、持ってくるから、ちょっと待ってて」

「…ごめんなさい、迷惑をかけて」

「いいんだよ。今はとにかく、大事にしないと」

 でもそれが一人に対する気持ちか、二人に対する気持ちかと言われれば、恐らく今はまだ、前者だ。こんなことを言えば誰かから叱られるのかもしれないが、ゆっくりと変わりつつある、その途中だから。

 そうしてまたきっと、自分は新しい「好き」を手に入れるのだと思う。

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