「あーっ、本当にもう、鬱陶しいな。時間ですから、行きますよ!」

甲高い声が、宇宙ステーションの廊下に響き渡る。

「あのですね。私は、<スメラギ>の護衛で、ちょっと海王星軌道上まで行ってくるだけですから、一か月もあれば帰ります。別に、初めて行くわけでもありませんし。分かったらもう、下がって下さい!」

 そう言って目の前の、滂沱の涙を流す男を払いのける、赤毛の女性士官――名前は、レティシア・コーラサワーと言う。そして払いのけられたのは、彼女の父パトリックだ。

「いや、だってお前、海王星って、よくわかんないけど、物凄く遠いじゃないか! っていうか、今までもそんなところに行ってたのか?! 俺に何も言わないで?」

「軍務です。貴方も軍人だったなら、事前に明らかに出来ないことも色々あると、分かっているでしょうに」

「事後報告も無かったぞ!」

「何十年子供扱いすれば気が済むんですか!」

 一向に引き下がらない父親を、もう一度押しのけて、レティシアは深々と溜息をついた。変革前の人類であれば、もうこんなやり取りをする年齢でもあるまい。そもそも自分が、モビルスーツに乗れる状態ではなくなっている。だが、父娘ともにイノベイターだ。年を取らない分だけは、下らないやり取りの時間も長くなる。

 だが、その後露骨にしゅんとした父親を見ると、流石にちょっとかわいそうかなという気にもなってくる。

「パパ。私は、貴方の娘、無敵のコーラサワー二世なの。外宇宙航行艦の護衛は名誉な任務だけど、難しいことじゃないわ。ちょっと行って、すぐに帰るから、それまでの間、ママのことをお願いね」

 すこし困ったようにして、細い眉を寄せる。愛娘のその苦笑に、パトリックはしみじみと、妻の若い頃の面影を見出していた。

 レティシアが生まれたのは、ELS襲来の二年後のことだった。そして、その顔を見た誰もが、どうやら内心で深々と溜息をついたらしい。くるくると野放図な輪を描く赤毛、すこし吊り上った目尻と、あけすけな表情。矢鱈とよく動くその赤ん坊は、呆れるほどに父親に似ていた。一体、これのどこに母親の遺伝子が入っているのか。どうして母親に似なかったのか。というか寧ろ、父親に似てしまって、この後どうするのか、かわいそうに。

 随分無礼な言い草だと言うことは可能だろう。だが、正直なところ、父親であるパトリック本人も、まったく同じことを考えていた。自分のような莫迦な男ではなくて、聡明で美しい妻に似てくれれば良かったのに、と。

 とはいえ、自分の分身としか思えない娘は底抜けに可愛らしく、母親であるカティが多忙なことも相まって、子育ての労の殆どはパトリックが負ったと言っても過言ではない。

 事件が起こったのは、生後半年ほどの頃のことだ。カティは不在で、パトリックが一人でレティシアをあやしていた。揺らして喜ぶのなら、もうちょっとやってみよう。そう思い立ったのが間違いで、所謂「たかいたかい」をしようとした、その瞬間。

「パトリック、莫迦者、それはまだ早い!」

 カティの声は蒼白だった。そう、パトリックは忘れていたが、首が座り切らず、脳もまだ不安定な赤ん坊を、そういう風に過激に扱ってはいけないのだ。

 はっと我に返って振り上げかけた手を止め、赤ん坊を妻に渡して謝罪する。それだけのことをすれば良かったのだが、パトリックにはそれが出来なかった。虚を突かれて狼狽えたこともあるし、そもそもカティのそんな声を聞いたのは、恐らく初めてだったから。

 一瞬にして、頭の中に様々な行動パターンが浮かび上がり、パトリックを混乱に陥れた。言ってみれば、手がプランAに従って動いたのなら、胴体はD-2、足はB辺りを行っていたのではないだろうか。

 要するに、色々なことを一気にやろうとしてしたパトリックは、赤ん坊を抱えたまますっ転んで、後頭部からダイニングテーブルに突っ込んでしまった。それでも無傷で娘は守った、と豪語してみるものの、大してフォローにはならない。

 驚いた赤ん坊は火がついたように泣き声を上げ、慌てたカティが駆け寄って覗き込んだ時、昏倒したパトリックの両眼が、金色の光を放っていたという。テーブルの上には、東洋の健康食品である、豆腐というものがあったとか、無かったとか。

 そんな、わけのわからない状況下ではあるが、それがパトリックが「変革」した経緯だ。本人も含めて万人が「何故」と問うたが、理由は誰も教えてくれない。

 そうこうするうちに、幼かった娘はすっかり大きくなり、両親の後を追って軍を志した。母と同じ戦術予報士ではなく、父と同じMSパイロットになってくれたのは、パトリックの人生の、最も大きな喜びのひとつだ。そしてこの時、彼女は「コーラサワー」の名を選んだ。

「何度でも生きて帰れる、無敵の名前なんでしょう? 演技がいいわ」

 口ではそう言ったが、実際には、名将カティ・マネキン元帥の娘という立場が重かったのだろう。実際、レティシアの母は連邦軍の最高幹部であり、三十年前の動乱を終わらせた功労者の一人だ。ひとつ間違っていれば、あの外宇宙航行艦の名前だって<スメラギ>ではなく<マネキン>だったかもしれない。

 それからまた、随分長い月日が流れた。幼かったレティシアはすっかり大人になり、イノベイターとして変革を遂げ、現在は連邦宇宙軍のMS隊を率いる、大佐という立場にある。お互い、一向に見た目が変わらないから、ついつい子供扱いしてしまうのだけれど。

 そんな娘が、重要な任務を帯びて、すこし遠くへ行くと言う。平和な時代に大人になって、実戦経験の無い軍人が。

 年を追うごとに父の面影が薄くなり、母親に似てきた娘は、笑顔で一礼して、踵を返した。色々な意味で、これでいいのだとパトリックは思う。彼女が戦火に遭うことが無くて良かったし、こうして宇宙に出て行くことも良かったのだ、と。あとは出来れば、イノベイターだから時間はまだあるとか言っていないで、適当なところで嫁に行って、孫の顔でも見せてくれれば。

 だが、そうすると、余所の男に娘を取られなければいけない。それはそれで嫌であることに気付いてしまい、人知れず無駄な懊悩をしながら、パトリックは帰路に就いた。家では妻が待っている。

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