ああ、逝き損ねた――五十年ぶりの太陽の光を浴びながら、ティエリア・アーデは思った。まだ、自分に肉体があった頃なら、腹の底からの吐息をついていただろう。寂しい気はするが、それ以上に大きく、安堵もしている。

 呆れるほど長い時間をかけてしまったが、どうやら自分たちは、生まれ故郷に還ってきた。

 五十年前のあの日、<ダブルオークアンタ>のコクピットに設置された、ヴェーダのターミナルユニットの中に、ティエリアは居た。正確に言うなら、その中に、意識データを入れていた、というべきかもしれないが。

 そして、<ダブルオークアンタ>のガンダムマイスター、刹那・F・セイエイとともに、時空を超えた。行先は、遥か外宇宙、未知なる、ELSの母星。

 時空を超えた瞬間に、ヴェーダとのリンクが切れるのは分かっていた。だから、いざ故郷を遠く離れた瞬間には、自分にはただ、意識と思考があったに過ぎない。ヴェーダとリンクさえしていれば出来たこと――膨大な情報の収集や検索、分析――の類が、殆ど出来なくなってしまった。機能的な意味で言えば、間違いなく、ティエリア・アーデがそこに居るという意味は、失われていた。

 だから、ティエリアが刹那とともに時空を超えた意味は、ただひとつしか無い。ティエリア・アーデという個人が、仲間が、一緒に居た、ということだ。

 困難にぶち当たった時に、ともに考えて、耐えること。ともすれば喋ることすら忘れてしまいそうな状況下で、他愛ないようなことでも話し合い、気を晴らし、紛らわせる。消えてしまいそうな故郷への思いと記憶を、どうにか繋ぎ止める。

 そうやって二人は、どうにか長い長い旅を乗り切った。

 ヴェーダへのリンクが回復したのは、木星軌道上だった。ヴェーダ自体が健在であろうことは予測していたが、人類の活動圏がそこまで広がっていたのは、嬉しくもあり、驚きでもあった。

 そして、自分たちが居なかった五十年のデータを収集し、刹那にフィードバックした。

 世界を、再びの混乱が襲ったこと。スメラギ・李・ノリエガとラッセ・アイオンが、身を挺してそれを止めたこと。ソレスタルビーイングの活動が、それを以て終わりを告げたこと。イアン・ヴァスティとライル・ディランディが天寿を全うしたこと。アレルヤ・ハプティズム、フェルト・グレイス、リンダとミレイナのヴァスティ母娘、それから沙慈・クロスロードがそれぞれ健在であること。最後に、これも健在であるマリナ・イスマイールのことも。

 その中から、最初に刹那が望んだのが、マリナ・イスマイールを訪ねることだった。ヴェーダで検索をかければ、彼女の所在を知ることも、それをダブルオークアンタの目的地に設定することも、五十年前と同じに造作無かった。

 そして今、開け放たれた<ダブルオークアンタ>のコクピットハッチからは、穏やかな色の花畑が見える。その、優しい色の広がりの中に小さな家があって、それがマリナ・イスマイールの現在の住居らしかった。そこで何を話しているのだろう。あの家の主は、刹那をどう受け止めたのだろう。

 ELSとの対話のために、刹那は人の身体を捨てた。赤い血は流れることを止め、心臓の拍動さえも途絶えた。イノベイターとしての精神を備えて、人の形を取った金属の塊。それが今の刹那だ。人類でもなくイノベイターでもなく、ましてやELSでもない、宇宙にたった一つの生命になってしまった。一体どれほどの時間を生きるのか、それすら定かではない。

 そんな刹那の側に居られるのは、恐らく自分だけだろうと、ティエリアは思う。意識と思考だけになって、電脳空間に存在するもの。果たしてこれを、生命と言えるかどうか。

 気にすんな。お前はそこに存在していて、出来ることがある。それで十分じゃねえか。

 自分は一体何なのか――そんな「人間らしい」悩みがよぎる度に、聞こえてくる声があった。ロックオン・ストラトス――その名を使った時間は、ライル・ディランディの方が圧倒的に長いかもしれない。けれどティエリアにとって、あくまでもそれは、ニール・ディランディを示す名だ。

 それでも彼のことを想う時、やはり自分は、人間とは違うのだろうな、とティエリアは知る。記憶が褪せないからだ。無限に広がる量子の海に蓄えられたデータは、消えもせず、変質することもない。そしてその中に、ティエリアの記憶と想いは存在している。だから、彼に救われた喜びも、彼を喪った悲しみも、思い返せば今も鮮やかなままに、この胸に甦る。

 だが、その想いが自分を「ひと」にして、ずっとこの世に繋ぎ止めてきた。それがあるから、生きていられた。それを皮肉と言うことも可能ではあるが、ティエリアはそれを、福音にも似たものと思ってきた。

 アレルヤ・ハプティズムがマリー・パーファシーを称して「自分に洗礼を与えてくれた人」と呼んでいたが、その気持ちはよく分かる。恐らく同じなのだ。アレルヤがマリーに与えられたものと、ロックオンがティエリアに与えたものは。生きる意味、幸福の価値、それがあるから、存在し続けていられるもの。

 だから、思ったのだ。刹那を無事に地球に送り届けたら、或いはもう、自分の役目は果たされるのではないか、と。実際、五十年を経た<ダブルオークアンタ>の機体は稼働の限界に迫っており、ヴェーダのターミナルユニットも例外ではなかった。もし、ヴェーダとのリンクを回復しないままに停止してしまえば、同時にティエリアの意識も闇に消えてしまう。ある瞬間に於いては間違いなく、ティエリアはそれを願った。

 そうすれば、ロックオン・ストラトスに逢える。この期に及んで、流石に「早えよ」とは言わないだろう。彼亡き後に成したことに、「お疲れさん、よくやったな」とでも言ってくれるのではないか。

 だが、現実は今ここに在り、ティエリアはまだ生きている。ヴェーダが健在である限りは、生き続けることが出来る。生き続けなければいけない。

 分かっているよ、ロックオン、刹那の面倒を見てやれと言うんだろう? ティエリアは独り苦笑する。勝手な言い草じゃないか、貴方が居なくなってから、殆どもう、六十年にもなるんだ。それなのにまだ、僕に面倒事をさせようとする――それが、僕が存在している意味だと、貴方は言う。

 確かにそれはそうだろう。宇宙にたったひとつの金属生命体である刹那に、この後どんな生き様が赦されるのか、それはまだ、ティエリアにも分からない。ただひとつ分かるのは、相変わらず彼は、自分の幸福のためには生きようとしないだろ、ということだ。恐らくは、いつかその身体が朽ち果てて、精神が天に還るまで。その、長いであろう時間を、孤独にさせてはいけない。

 分かったよ、ロックオン、ほかでもない、貴方の願いなのだから、叶える努力はしてみよう。その代わりいつか、貴方のところに逝く時には、多少は褒めてくれたっていいだろう。

 他の何にも似ていない命を持つ自分たちに、これから何が出来るのか――刹那が戻ったら、すこし話してみよう。まだこれから、アレルヤ・ハプティズムやフェルト・グレイス、ミレイナ・ヴァスティにも会いたい。彼らと再会し、話をして、具体的なことはそれから、ゆっくりと考えればいい。

 ただ願わくは、この穏やかな世界を守る、一助にならんことを。

 天近くに在り、長い時を超えて、この平和を続けていくために生きる――行こう、刹那、僕たちが、ソレスタルビーイングだ。

 透明な光をたたえて広がる蒼穹を見上げて、ティエリア・アーデはそう呟いた。

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